福岡の炭坑町で生まれた「銘菓ひよ子」が“東京土産”と呼ばれる理由 誰もが知る「おみやげ」の知られざるウラ話
「もみじ饅頭」に本家はない!?
漫才師、島田洋七(B&B)は語る。
「僕が持って行くとウケるので、差し入れやお土産はこれに決めてます(笑)」
広島銘菓の「もみじ饅頭」だ。1980年代の漫才ブームで、「もみじ饅頭!」と手振り付きでギャグを披露していた姿をご記憶の読者も多いだろう。その銘菓としての誕生には伝説的なエピソードがある。1906年、広島は宮島の名所、その名も紅葉谷(現在は紅葉谷公園)にある茶屋を訪れた元総理大臣・伊藤博文が、お茶を出した娘の手を見て、こう声をかけた。
「紅葉のような可愛い手だね。焼いて食べたら、さぞ美味しかろう」
この一言で、茶屋が「もみじ饅頭」を思いついた……というのである。ところが精査すると、どうやらこれは都市伝説の類いのようで、正式には紅葉谷の近くにあった老舗旅館「岩惣」の女将が、「ここでしか出せないお菓子を作ってくれませんか?」と菓子屋に頼んだのが誕生のきっかけというのが定説だ。
作ったのは和菓子職人の高津常助で、誕生は1906年と伝えられる。実は伊藤博文も同年の2月23日から「岩惣」に1泊しており、この辺りの情報が錯綜して、さまざまな逸聞を生んでしまった可能性はある。だがしかし、少なくとも伊藤博文が、初期のもみじ饅頭を食べた、最初の(元)総理大臣である可能性はあるだろう。
さて、初代の高津常助は、大阪まで足を運んでもみじ饅頭の型を作ってもらうなど腐心したが、レシピを残さず。よって2代目は作るのを辞めてしまった。しかし、その製造や販売の独占もしなかったため、常助の元で修行した職人らが独立し、徐々に広島県全体に広まって行った。
そのため、もみじ饅頭の本店というものは存在せず、数々の老舗店舗が、それぞれ独自のもみじ饅頭を作っているというのが特徴だ。チーズやチョコレートを入れたものや、揚げた「揚げ紅葉」、生菓子風の「生もみじ」なども生み出されているし、自動販売機も存在する。言い換えれば、さまざまな可能性を試せる菓子であり、大手の「にしき堂」(広島市東区)は2014年4月より、アレルギーの原因となる特定原材料7品目を使わないもみじ饅頭を開発。半年後、広島の友人から同品を送って貰ったとして、和歌山県の中学生からの投書が新聞に載った。
〈市販のほとんどのお饅頭が食べられない私にとっては夢のような商品です。(中略)広島に行ったときは、このもみじ饅頭を食べながら宮島を観光したいです〉(朝日新聞大阪版。2014年10月3日付)
そして、もみじ饅頭の名が全国区になったのは、やはりB&Bのギャグから。漫才ブームが起きた1980年前半から売上は倍増し、品薄が続いたという。相方の島田洋八は岡山県出身で、きびだんごや桃など、名物には事欠かない。対して広島出身の洋七は、今いち名物が思い浮かばず。思い出せたのがもみじ饅頭だったゆえ、大きな身振りで品名を大呼するギャグが生まれたのである。しかし、洋七は言う。
「今でも、どこが面白いか、自分でもよくわからないんだけどね……(苦笑)」
広島市中区の出身である洋七だが、家庭の事情で、早くから母親の元を離れ、佐賀にある祖母の家で暮らすことに。母は月に一度、広島から洋七に生活用品や着替えなどを送っていた。その中に必ず、3個のもみじ饅頭が入っていた。1つを祖父の仏壇に供え、残りを1つずつ祖母と分け合って食べた。食事を抜かねばならぬほど貧しい生活の中、月に1個のもみじ饅頭は、洋七には最高のぜいたくだったという。
洋七は現在も、「僕は永遠のもみじ饅頭サポーター」と自任している。



