福岡の炭坑町で生まれた「銘菓ひよ子」が“東京土産”と呼ばれる理由 誰もが知る「おみやげ」の知られざるウラ話

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「切腹最中」というお菓子がある(東京「御菓子司 新正堂」)。忠臣蔵で有名な浅野内匠頭が切腹した跡地に店舗があることが命名の由来の一つだが、残忍さを思わせる名称ではあるものの、人気は高い。なんでも、さる証券マンが客に大損をさせた際、手土産に持参したら笑って許して貰えたからというこぼれ話が伝わっている。「切腹したいほど、反省している」という意味か。高名なお土産には逸話が多い。帰省もピークとなる年末年始のこの時期、知られざる秘話を紹介したい。購入と併せ、“土産話”にして頂ければ幸いだ(文中敬称略)。

東京名物?

 帰省客でごった返すだろう東京駅で、長期に渡りトップクラスの人気を誇るお土産が、「銘菓ひよ子」だ。例えば、1978年の読売新聞関東版には、〈ふる里へのおみやげに 名菓ひよ子〉の文字とともに、こんな雑学付き広告が掲載されている。

〈上野駅をご利用の皆さまへ 渋谷がハチ公なら、上野は翼の像〉(9月30日付夕刊)
〈目黒駅をご利用の皆さまへ 目黒駅は目黒区にはありません〉(5月13日付夕刊)

 都内の駅を中心とした、軽く楽しめる豆知識が披露されていた。しかし、驚きの事実がある。この「ひよ子」自体が、そもそも東京土産ではなく、もとは福岡県の銘菓で、具体的には同県筑豊の飯塚町(現・飯塚市)で誕生していた。炭坑の町として有名だった飯塚町は1921年のデータで127もの菓子店があった。飲食店や酒屋を上回っており、いわば、炭坑労働者の疲れは甘味が癒していたわけだ。同地の菓子店「吉野堂」の2代目店主・石坂茂が、夢でひよこの形を見て、このお菓子を思いつき、1906年12月1日に発売を開始した。

 茂は進取の気性にも富み、早くから東京進出を視野に入れていた。東京五輪がおこなわれた1964年に工場を埼玉に設立し、2年後には東京駅八重洲の地下街に直営店をオープンした。更なる契機は1985年、東北新幹線の上野乗り入れだった。上野のキヲスクで「ひよ子」を買って帰省する利用客が続出し、彼ら、彼女らはこう言ったのである。

「東京で買って来た」

 これが、「ひよ子」が東京土産として認知されるようになった理由である。1988年にはその上野に「吉野堂」の関連会社として、「株式会社 東京ひよ子」が設立されている。

 以降、福岡生まれの人が帰省のお土産用にと、東京で「ひよ子」を貰ったというエピソードは事欠かない(福岡では笑い話にもならないほど、頻出する体験談らしい)。とはいえ、福岡の方が湿度が高いため、焼きを強くしてあり、少し「ひよ子」の体がスマートであるという。また、福岡では、通常の5倍の大きさの「大ひよ子」が地域限定で、また、東京限定で「紅茶ひよ子」が冬季のみに、「塩ひよ子」が夏季のみ発売されるなど、それぞれに特色はあるようだ。

 一方で、東京発の人気手土産として、こちらも30年近くハイレベルな売上を誇っているのが「東京ばな奈 見ぃつけたっ」(グレープストーン)である。

 発端は1989年、洋菓子ブランドとして知られる「銀のぶどう」に催事出店の話が来たことだった。しかし、当時の同社は手軽に買えるお土産品がない。そこで経営元のグレープストーンが、「これぞ東京名物というものを作ろう!」と意気込み、老若男女に好かれる一品を模索。ところが“東京の特産品”という視座で行き詰まり、東京を“第二のふるさと”と捉え、そんな人々に広く親しまれ、思い出にもある味は何か? という考え方に変えた。

 結果、大人には過去の高級品であり、子供には馴染みのあるバナナをモチーフに。しかし、これではご当地色が出ないため、あえて品名に「東京」を入れたのだった(なお、他に挙がっていた商品名は、「バナナ物語」「そんなバナナ」)。そして、親しみを持たせるため、「ばな奈」と女の子表記にし、「見ぃつけたっ」でかくれんぼ的な郷愁を添えた。パッケージには女子を思わせるリボン柄が付いている。

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