2025年に“歴史が大きく変わった3つの城” 「家康の城」「有名天守」「光秀の城」

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壮麗な姿が解明されてきた明智光秀の城

 3つ目は、明智光秀が築いた坂本城(滋賀県大津市)である。この城は、地上に痕跡がほとんど残されていなかったことから、長く「幻の城」と呼ばれていたが、9月18日に国の史跡に指定されたのである。

 元亀2年(1571)の比叡山焼き討ち後、織田信長の命により光秀が、京都と比叡山を監視する目的で築いた城で、イエズス会宣教師のルイス・フロイスは、著書『日本史』に「それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」(松田毅一・川崎桃太訳)と書いている。

 実際、琵琶湖の水を引き入れた三重の堀がめぐらされ、まだ山城が中心だった時代に交通至便の要地に築かれた平城は先進的で、しかも、信長の安土城に6年も先がけ、大小2棟の壮麗な天守が建っていたという。だが、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変後、山崎合戦で光秀が敗退すると、灰燼に帰してしまった。

 その後、羽柴秀吉の命令で再建されたが、天正14年(1586)、城主だった浅野長政は秀吉の命で大津城(大津市)を築いて移り、廃城になった。こうしてわずか15年ほどしか存在せず、石垣などの資材は大津築城に使われたため、遺構がほとんど残っていなかった。

 昭和54年(1979)、本丸と推定される場所で発掘調査が行われ、礎石建物の跡や大量の瓦などが発見されたのを最後に、ニュースもあまりなかったが、令和5年(2023)、湖岸から西に約300メートルの場所で宅地造成にともなう発掘調査が行われ、長さ30メートル以上、高さ1メートルの野面積の石垣で固められた、幅9~10メートルの堀の跡が見つかったのである。

 折しも、琵琶湖の水位の低下により、湖面から本丸の石垣の遺構が姿を現すことが多くなっていた。この湖底の遺跡に関しても、大津市と京都橘大により令和4年(2022)から、潜水などによる共同調査が行われ、あらたに石群や礫群が見つかっていた。

 こうした一連の発見を受け、「幻の城」は規模や構造、琵琶湖との関係などについて、立体的に推定できるようになってきた。このため本丸とされる場所と、今回発見された三の丸の石垣と堀の計1万1,700平方メートルほどが、国指定史跡になったのである。2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』に向けても、目が離せなくなってきた。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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