「関ヶ原合戦で豊臣秀頼は一大名に転落した」という定説は大間違い――近世史の第一人者が挙げる「決定的証拠」

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 豊臣秀吉の遺児・秀頼は、関ヶ原合戦の敗北によって、摂津・河内・和泉の3か国・65万石の一大名に転落した──長らく定説とされてきた歴史像です。

 しかし、当時の有力大名だった伊達政宗や黒田如水の書状などの史料に目を向けると、実は全く異なる景色が見えてきます。合戦後も秀頼は「天下を統べるべき存在」として広く認識され、領地安堵の権限さえも担っていたのです。
 
 ではなぜ、その存在感が後世の歴史叙述において矮小化されたのでしょうか。国際日本文化研究センター名誉教授で近世史の第一人者である笠谷和比古氏は、新刊『論争 大坂の陣』(新潮選書)で、秀頼と豊臣家の地位を再検討し、関ヶ原後の政治秩序の真実に迫ります。以下、同書から一部を再編集して紹介します。
 
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伊達政宗の驚くべき認識

 関ヶ原合戦後における豊臣秀頼の位置がどのようなものであったかを最も明確に教えてくれるのが、次の伊達政宗書状であろう。合戦翌年の慶長6(1601)年4月21日付で、家康側近の今井宗薫に送られたものである。
 
 それによれば、合戦終了時点で8歳(数え年)であった秀頼は、成人した暁には全武士領主を統率して、天下の政治を主宰するべき存在であると、同合戦後もなお人々の間で認識されていたことが分かる。
 
 その内容は、
 
 いかに太閤秀吉公の御子であると言っても、日本国の統治を執り行っていけるような能力をもった人物ではないと、家康様が見極められたならば、その場合には、秀頼様に領国として二、三ヶ国か、あるいはそれ以内でも差し上げて、一大名として末永く豊臣家を存続していかれるようにするのが望ましい。
 
 というものである。
 
 すなわち、伊達政宗のような親徳川の大名であっても、秀頼は成人した暁には日本全土を統治する存在として認識されていた。秀頼と豊臣家が関ヶ原合戦の後、もし一大名に転落していたのであれば、このような文書が出る余地はないということである。

■黒田如水に領地を与えられるのは誰か?

 このように、関ヶ原合戦後の世界において、秀頼の地位が一大名の地位に落ちたとする従来の歴史認識が改められなければならない。
 
 さらに、ここでは、領地の配分の執行が家康の手によって行われているものの、その発給権限が秀頼にあるという点について説明する。
 
 関ヶ原合戦では家康方東軍に属して九州方面で戦っていた黒田如水が九州において自力で切り取った敵方の領地について、これを自己の領地に編入しうるよう家康への取りなしを藤堂高虎に依頼した書状によると、
 
 九州方面で東軍として戦った加藤清正や自分(黒田如水)の場合、今回の戦いで西軍の大名から奪い取った領地については、家康様からの取り成しで、秀頼様から拝領できるように、あなた(藤堂高虎)から井伊直政に相談されるよう仲介を頼みたく思っています。あなたと数年来、昵懇にしてきたのはこの時のためです。
 
 と書かれている。
 
 いま如水が九州方面での戦いにおいて西軍諸大名から切り取った領地について、秀頼様から安堵してもらうように家康に働きかけてもらえないかという要請が表明されている。
 
 東軍に属して家康の指令の下に戦っている黒田如水にあっても、領地の安堵を行う主体が家康ではなくて秀頼であることは、まったく説明する必要もないほどに自明のことであったということである。

 ※本記事は、笠谷和比古著『論争 大坂の陣』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

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【関連記事】「『徳川家康は日本列島を東西に二分割するつもりだった』――近世史研究の第一人者が辿り着いた『歴史の真相』」では、関ヶ原合戦後の領地配置から、大胆な仮説を手掛かりに幕藩体制の根底に潜む力学に迫っています。

笠谷和比古(かさや・かずひこ)
1949年神戸生まれ。京都大学文学部卒業。同大学院博士課程修了。博士(文学)。国際日本文化研究センター名誉教授。専門は歴史学、武家社会論。著書に『主君「押込」の構造』、『関ヶ原合戦』、『徳川吉宗』、『江戸御留守居役』、『武士道と日本型能力主義』、『関ヶ原合戦と大坂の陣』、『武士道 侍社会の文化と倫理』、『豊臣大坂城』(黒田慶一氏との共著)、『徳川家康』、『論争 関ヶ原合戦』、『近世の朝廷と武家政権』など多数

デイリー新潮編集部

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