2025年に“歴史が大きく変わった3つの城” 「家康の城」「有名天守」「光秀の城」
家康の天守の構造がわかる絵図が見つかった
2025年にも、このように歴史が変わった城がいくつかあった。そのうち主要な3つを以下に紹介したい。
最初に駿府城(静岡市葵区)である。山梨県山梨市の個人が所蔵していた縦75センチ、横72センチの絵図に、これまでの絵図にはない貴重な情報が描かれていることが、8月にわかった。姫路藩主の酒井家に伝わったとされるこの絵図は、延宝年間(1673~81)に原本を写したと推測され、原本には徳川家康が大御所時代に居城にした当時の駿府城が描かれていたと考えられている。
家康時代の駿府城は、本丸の北西にあった史上最大とされる巨大な天守台の構造が、詳細にはわかっていなかった。天守台の中央に天守が建ち、その四隅を櫓が囲み、それらの間を多門櫓が結んでいたことは知られていた。絵図が見つかったことで、南側の石段が天守台の入口で、多門櫓の内部を経由し、東側の多門櫓から西向きに突き出た天守の付櫓に入る、というのが天守への入り方だとわかった。
この天守台には近年、大きな発見があったばかりだった。駿府城は明治29年(1896)に陸軍歩兵第34連隊が置かれたため、本丸を囲む内堀は埋められ、天守台も上部を崩されて地中に埋没してしまった。それが平成28年(2016)から令和2年(2020)の発掘調査で出土したのである。しかもその内側からは、家康が天正13年(1585)から同17年(1589)に築いたと思われる天守台まで出土した。
この発掘現場はしばらく間近で眺められたが、いったん閉鎖され、令和9年(2027)4月から、屋外の展示施設を整備したうえで、公開されることになっている。その際、天守のVR上映も検討されているが、絵図がその姿に影響をあたえることはまちがいない。
現状では最古となった松本城天守
続いて、現存12天守のひとつで国宝にも指定されている松本城(長野県松本市)に関するニュースである。松本市が天守の建築部材について年輪年代調査を行った結果、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以前の、文禄3年(1594)から慶長2年(1597)に建てられたことが明らかになったのだ。
松本城天守の建築年代は、これまで諸説あって定まらなかった。天守は大天守を中心に、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5棟で構成され、市の公式見解は、大天守と乾小天守は文禄2~3年(1593~94)ごろ、辰巳附櫓と月見櫓は寛永10~11年(1633~34)ごろに増築された、というものだった。だが、たとえば広島大学名誉教授の三浦正幸氏は、小天主だけが文禄元年(1592)ごろに建てられ、大天守は慶長20年(1615)ごろ、辰巳附櫓と月見櫓は寛永10~15年(1633~38)の増築だと主張していた。
調査は世界遺産登録を目指すために行われ、令和4~6年(2022~24)に名古屋工業大学名誉教授の麓和善氏と、奈良文化財研究所名誉研究員の光谷拓実氏が担当した。新しいと思われていた辰巳附櫓が、大天守と同年代の建築だとわかったことも大きい。月見櫓の建築年代も寛永3年(1626)から2年程度と判明し、従来考えられていたよりも古かった。
調査結果は、現存最古の天守を決めるうえでも意味があった。丸岡城がその「争い」から脱落したことはすでに述べた。すると松本城の「ライバル」は犬山城(愛知県犬山市)になる。犬山城天守も国宝5天守のひとつで、令和3年(2021)、松本城と同様に麓氏と光谷氏による調査の結果、天正13~18年(1585~90年)ごろに築かれた、と発表されていた。
そうであれば現存最古は犬山城で、松本城は2位になる。だが、前出の三浦氏は、犬山城天守の木材がその時期に伐採されたことは認めながら、その木材を使って美濃金山城(岐阜県可児市)に建てられた天守が、慶長6年(1601)に犬山に移築されたとの見解を発表した。つまり、犬山城が現存最古ではない可能性が指摘されたわけで、現状では、建築年代が確定していてもっとも古いのは松本城天守、ということになったのである。
[2/3ページ]



