2025年に“歴史が大きく変わった3つの城” 「家康の城」「有名天守」「光秀の城」

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「現存最古」の天守が「6位」に後退

 小中学校や高校で学ぶ教科のなかで、授業で教わった知識がいつのまにか通用しなくなっていた、ということがもっとも起こりやすいのが歴史だろう。あたらしい史料が発見されたり、研究が進展して過去の解釈が覆されたりして、塗り替えられることが多いのが歴史だといえる。

 それは日本の城についても同様である。史料や絵図などが発見されたり、発掘調査で考古学的な発見があったり、科学的な調査によって新事実が発見されたりすることで、それまで当たり前だったことが、大きく覆ることがある。

 たとえば、現存12天守のひとつ丸岡城(福井県坂井市)の天守は、長く「現存最古」と謳われてきた。古風な佇まいも相まって、天正4年(1576)に柴田勝家の養嗣子の勝豊が建てたという説が有力だったのだ。ところが、令和元年(2019)に行われた総合的な学術調査の結果、この天守は寛永3年(1626)以降に建てられたことが判明したのである。

 具体的には、天守の床下に保管されていた古い通し柱が、年輪の数や幅の大小を細かく測る酸素同位体比年輪年代調査の結果、1626年に伐採されたと判定された。ほかの柱や梁も同じ調査方法で1620年代の伐採とわかった。また、前述の通し柱に関しては、生物が生命を失ってから5730年で半減する放射性炭素の含有量を科学的に測り、外側の年輪の年代を測定する放射性炭素年代調査でも、1623+α年という結果が出た。

 こうなると異論をはさむ余地がない。戦国時代に建てられた「現存最古の天守」は犬山城、松本城、彦根城、姫路城、松江城の天守よりあたらしい、太平の世に建てられた古風な天守になってしまった。

 あるいは、織田信長が永禄4年(1563)、美濃(岐阜県南部)の斎藤氏を攻略する前線として築いた小牧山城(愛知県小牧市)は、岐阜城に移るまでの4年間しか使われなかったため、急ごしらえの臨時の城だったと考えられていた。ところが発掘調査により、城の南側に本格的な城下町が展開していたと判明し、続いて平成16年(2004)以降の発掘調査で、主郭の周囲には巨石を積んだ、2段および3段の石垣がめぐる、本格的かつ先進的な城だったことがわかった。

 その後、令和3年(2021)から7年(2025)度にかけ、小牧市は山頂の主郭部の復元整備を行い、現在では、以前とまったく違う景観が広がっている。

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