家康はなぜ「豊臣との共存」から「大坂の陣」へと方針を急転換したのか?――近世史の第一人者が注目する「駿府城火災事件」

徳川家康像(模本)部分、(出典:「ColBase」(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-9702?locale=ja)をもとに作成)()
慶長5(1600)年に関ヶ原合戦で雌雄を決した後も、徳川家と豊臣家は婚姻を通じて関係を強化するなど、共存を図って来ました。ところが、慶長13(1608)年を境に、家康の豊臣家への態度は急速に冷え込み、やがて「大坂の陣」へとつながっていきます。孫娘の嫁ぎ先でもある豊臣家に対して厳しい視点が生まれた転換点はいったいなんだったのでしょうか──。
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表面上は大きな衝突もなかっただけに、この急変の理由は専門家の間でも長く謎とされてきました。笠谷和比古・国際日本文化研究センター名誉教授は、新刊『論争 大坂の陣』(新潮選書)の中で、その背後に潜む可能性として、駿府城の2度にわたる火災事件に注目します。以下、同書から一部を再編集して紹介します。
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慶長13年から急変した態度
家康の対豊臣政策は、慶長13年から急速に悪化し、露骨に敵対的な性格を示すようになっていく。
同11年には将軍の居城である江戸城の普請に際して、秀頼の家臣を家康の家臣とならぶ形で、普請奉行として迎え入れるという殊遇をもって接していたのに比して、同13年以降の態度は、180度急変するものであった。
何がそのような激変をもたらした要素であるのか。しかしそれは定かではない。仮にそれまでの家康の宥和的態度が表面的なものに過ぎなかったとしても、やはりそれが激変するためには、激変の理由づけが必要である。何がしかの豊臣家側との紛議、確執が存在しなくてはならないが、それが明確ではない。
構築された豊臣包囲網
底意がどうであれ将軍の居城である江戸城の普請に際して、秀頼の家臣を普請奉行の資格で招き入れるというのは豊臣家に対する破格の敬意に他ならないであろう。主君筋に対する敬意とも見なしうる。
それに対して慶長13年以後は、要塞型城郭の整備をもってする露骨な豊臣包囲網の構築なのであるから、激変といってよいであろう。
京都から西には徳川の譜代大名を置かないのが関ヶ原合戦後からの一貫した領地配置の原則であったが、慶長13年6月、丹波国八上城主前田茂勝(豊臣奉行であった前田玄以の子)が発狂を理由として改易に処せられたのち、空き領地はしばらく領主不在の状態のままであったのだが、同年9月になって、その後釜として、常陸国笠間5万石の城主松平(松井)康重が5万石で同地に封ぜられた。
これは関ヶ原合戦後においてはじめて、徳川の譜代大名が京都から西の地域に封ぜられた事例となる。康重は前田の八上城を改修しようとしたが地形的に不適合であったことから、家康の命により翌14年になって、八上城を廃城にして丹波篠山の地に新規の城郭を構えることとなる。
家康はさらに同じ慶長14年に、譜代大名で下総国山崎1万2000石の岡部長盛を丹波亀山(現、亀岡)3万2000石に封じ、やはり亀山城を天下普請をもって堅固に改修した。
これら一連の措置が、大坂包囲網の構築を意味していることは一目瞭然であろう。篠山・亀山と連繋する先には京都の伏見城があり、この三城連繋による大坂包囲の形勢が顕わであった。
伏見城に代わる地政学的重心の移動
しかしそれ以前、徳川と豊臣との間にトラブルが生じた形跡は皆無と言ってよいほどに見られないのである。
そのような無風に見える中で、一つ気掛かりなのが駿府城焼失事件である。 将軍職を秀忠に譲って大御所となった家康は、慶長12(1607)年、政務の拠点をそれまでの京都伏見城から、諸大名を動員して構築した駿府城へ移転する。
それまで伏見城内にあった書類や道具類も、ことごとく駿府城に移させた。家康の意図は、天下の政務を執り行う拠点を京都伏見から駿府に移させることで、いわば政治の地政学的重心を東へ移動させることを狙ったものであったろう。
できれば一気に江戸にもっていきたいところであるが、現実にはそれは無理なことなので、第一段階として駿府に旧来の伏見城の役割を移し、西国大名を中心とする全国の大名を駿府に参勤させる体制を構築しようとしたものであろう。
二度にわたる駿府城火災事件
そして竣工なって家康も入城した駿府城であったが、同年12月22日夜のこと、同城内で火災が発生し、新造の御殿が全焼するという事件があった。
家康は火に囲まれて焼死しかねない程の緊迫した状況のようであったが、側近の者が就寝していた家康を、抱きかかえるようにして庭に飛び出して難を逃れたということであった。家康はそれより郭外にあった本多正純の屋敷に避難している。
こうして新築なったばかりの駿府城殿舎は全焼する結果となった。出火原因については、侍女が夜分に納戸で用事をしていたところ、横に置いた紙燭台の火が物に燃え移り、大火災となったとのことであった。
その後、同城の再建がなされ、慶長14年に竣工なって家康らは新御殿に入ったのであるが、ところが再び出火事件が発生した。今回の事件は放火と見なされ、犯人と目された下女2名が火刑に処せられ、それら下女を使っていた中臈クラスの女性2名は遠島処分となっている。
豊臣側の手の者による出火?
二度にわたる駿府城火災事件である。二度目の異常さは言うまでもないことであるが、一度目についてもそれが単なる火災ではなく、作為的なものではないかと疑わせるものがあった。通例の火災にありがちな、台所や奥向きからではなく、家康の寝所近くからの出火であったことなどである。
事の真偽は判然とはしないが、家康がこれを自分の焼死を狙った作為的なものと猜疑した可能性は少なくないであろう。すなわち、豊臣側が家康の抹殺を図ったのではないか。火事それ自体は単なる過失であったにしても、城内にひそむ豊臣側の手の者が大火災へと仕立てていったのではないか、と。
新築の大御殿が全焼してしまった喪失感、自分自身が危うく焼死しかねなかった危機感から、そのような疑心に苛まれていくのは避けられなかったのではなかろうか。
※本記事は、笠谷和比古著『論争 大坂の陣』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。
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