ソ連の独裁者たちが手を焼いた“厄介な男” 権力と渡り合い97歳まで生き抜いた芸術家の正体とは
「表現の自由が制限された独裁国家では、偉大な芸術は育たない」……かと思いきや、現実世界に目を向けてみると、必ずしもそうとは限らないのが不思議なところである。たとえば、全体主義国家として悪名高かったソ連では、クラシック音楽、バレエ、演劇、小説、映画……多くのジャンルで偉大な作品を生み出している。
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なぜソ連の芸術家たちは、共産党による厳しい統制の中で、偉大な作品を生み出すことができたのか。その理由の一端を垣間見せてくれるのが、ロシア史を専門とする池田嘉郎・東京大学教授の新刊『悪党たちのソ連帝国』(新潮選書)である。
同書は、レーニンからゴルバチョフまで、ソ連に君臨した6人の政治指導者に焦点を当てた列伝であるが、その中で狂言回し的な形ですべての章に登場するのが、ロシア演劇界の巨匠ユーリー・リュビーモフ(1917年~2014年)である。
日本とロシアの演劇交流に尽力し、2007年には日本政府から旭日小綬章も授与されているリュビーモフは、少年時代にレーニンの葬儀に立ち会って以来、97歳で大往生を遂げるまで、ソ連の指導者たちと様々な形で対峙しながら――時には亡命も経験しながら――共産党のプロパガンダとは一線を画した素晴らしい演劇を次々と世に送り出してきた。
なぜリュビーモフは全体主義の統制下で偉大な作品を作り続けることができたのか、その理由を考える手がかりとして、『悪党たちのソ連帝国』から、リュビーモフに関する記述の一部を紹介したい。
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再建されたスターリンのレリーフ
ソ連帝国の歴代統治者の姿は、プーチンを介して今日のロシアに影を落としている。だが、書記長や大統領だけが、ソ連史・ロシア史を体現しているわけではもちろんない。今日のロシアをかたちづくっているのは、本人また父母がソ連を生き、ソ連崩壊後の混乱を生きた無数の人々である。彼らの人生は、歴代の統治者の言動を通してのみ理解できるものではない、それ自身の重みをもっている。
そうした人々のなかにリュビーモフもいた。スターリンのレリーフが再建されたタガンスカヤ駅(この駅名はタガンカ地区を意味する)は、彼の劇場のすぐ近くにあった。このことは、われらがリュビーモフの軌跡に視線を戻すことを、ちょうどよく促してくれているように思われる。
スターリンを演じたリュビーモフ
亡命から帰国したリュビーモフと劇団員のあいだには微妙な空気が漂い、1990年代のタガンカ劇場は分裂に悩まされた。それでも彼は旺盛に作品をつくり続けた。特筆すべき1本が、1998年にソルジェニーツィン生誕80周年に寄せて上演された「シャラーシカ」である。同作は戦後を舞台にした作家の自伝的長編『煉獄のなかで』に基づいており、題名は技師たちが研究に従事させられる特別収容所を意味する。「シャラーシカ」が特筆に値するのは、御年八一歳のリュビーモフが、演出するだけでなく役者として舞台に立ったからである。彼が演じたのは誰あろうスターリンだった。
スターリンが出てくるのは原作にかなったことで、ソルジェニーツィンは領袖にみずからの胸中を語らせているのである。舞台上のリュビーモフもまた、『煉獄のなかで』と思しき本を手にしながら、囚人たちや国家保安大臣ヴィクトル・アバクーモフ、さらには観客に向かって、小説の言葉をそのまま、あるいは字句を変えて、口にした。「あらゆる官庁で、誰もが自分の領袖をだまそうと努めている」「人民を自信がないままにさせておいてはいけない。革命は彼らをみなしご、無神論者にして置き去りにしてしまった」。スターリンのことは自分が一番よく知っていると言わんばかりの、堂に入った芝居であった。
退場に際してもリュビーモフは愉快そうに叫んだ。「90歳まで生きなければならん、分かるかね、公共の秩序のために!」あたかもスターリンは七四歳で死んだが、自分はまだまだ生きるぞと言っているかのようであった。実際、彼は元気であり続けた。94歳を迎える2011年には給与支払いをめぐって俳優陣と衝突し、タガンカ劇場を捨て去った。だが、その翌年には古巣のワフタンゴフ劇場でドストエフスキーの『悪霊』をかけ、尽きせぬエネルギーによって世間を驚かせた。ついに心不全で亡くなるのが2014四年10月5日、97歳の大往生であった。
一筋縄ではいかないソ連の「悪党たち」
リュビーモフという人を見ていると、ソ連帝国が書記長たちだけのものではないという当たり前のことが、あらためて浮き彫りにされる。彼のように大胆に発言するか、黙っているかにかかわらず、人びとはみな、革命であれ、内戦であれ、飢餓であれ、テロルであれ、戦争であれ、冷戦の緊張であれ、国家の崩壊であれ、統治者たちのもたらした苦難をみずから、また親族を通して経験した。彼らはみな、ソ連とは何であったのかを、身をもって考えたのである。
とはいえ、リュビーモフのことを、ソ連帝国に対してあらがった良心的芸術家などとあがめる必要もない。われわれが見てきたとおり、彼はまごうかたなきソヴィエト市民であった。子どものときには兄に連れられてレーニンの葬列にくわわり、青年時代には政治警察長官ベリヤおかかえの楽団で活躍した。演出家として好スタートを切れたことにもミコヤンが一役買ったであろうし、その後のトラブルを乗り切れたのもブレジネフやアンドロポフの目こぼしがあったからであった。彼もまた、ソ連帝国の家族共同体のなかにいたのである。役者たちとの一度ならぬ衝突、それに嬉々として演じたスターリンの身ごなしからは、リュビーモフの指導スタイルにもどこか領袖的なところがあったのではないかと思わされる。
そう、ソヴィエト市民としてスターリンに育成され、ソ連指導部としたたかに渡りあい、新生ロシアを好きなように生きたリュビーモフの姿を眺めていると、ここにもまた悪党がいたのではないかという感慨がわいてくるのである。数多くの異論派もそうであったが、クレムリンの主人たちはリュビーモフのような厄介な相手に何度も頭を痛めた。そうした一筋縄ではいかない連中も含めての、悪党たちのソ連帝国なのである。
※本記事は、池田嘉郎著『悪党たちのソ連帝国』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。




