「歴史」をねじ曲げるプーチンの危険すぎる思想――ウクライナを“ナチス”と呼びつける理由

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 プーチン露大統領が「ロシア人保護」を名目にウクライナに侵攻したことは、世界中の人びとに激しい衝撃を与えたが、その「ロシア人保護」の文脈の延長でしばしば出てくる「ウクライナはナチス」という言説。駐日ロシア大使館も2月28日付のTwitterで、「日本は100年も経たぬ間に二度もナチス政権を支持する挙に出ました。かつてはヒトラー政権を、そして今回はウクライナ政権を支持したのです」と発言した。

 ウクライナをナチスになぞらえることについては、しばしばウクライナの反ロシア国境警備組織「アゾフ大隊」(2014年のクリミア危機に際して創設)が、ハーケンクロイツを掲げたことに起因すると指摘されるが、果たしてそれだけだろうか……。

 プーチンは「アゾフ大隊」とは別に、ウクライナをナチスに見立てるロジックを「歴史」を用いて構築していたのである。

 そのプロセスを見事に解き明かすのが、プーチン分析の第一人者で米ブルッキングス研究所シニアフェローのフィオナ・ヒル氏。彼女が放つ渾身の一冊『プーチンの世界―「皇帝」になった工作員―』には、ウクライナをナチスに見立て、侵攻を正当化するプーチンの危険な「歴史認識」が次のように記されている。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

歴史という兵器――第2次世界大戦の再来

 プーチンにとって、2014年は記念すべきイベントが集結する年だった。第1次世界大戦勃発から100周年、第2次世界大戦勃発から75周年。そして、レニングラード包囲戦の終結やノルマンディ上陸作戦など、第2次世界大戦の終戦につながった画期的な出来事から70周年……ピックアップするネタには事欠かなかった。

 14年1月、プーチンは年明け早々行動に乗り出し、レニングラード包囲戦の終結を記念する式典で花輪を手向けた。彼は包囲戦との個人的なつながり(「これは私自身の家族史に刻まれた出来事だ」)やレニングラード市民(彼の両親も含む)の払った犠牲について強調した。ロシアの国営テレビは、ナチスのソ連侵攻をテーマとした映画やドキュメンタリーをひっきりなしに放映した。そうした映像のなかで語られる事実の数々は、プーチンやクレムリンがキエフに誕生した「新たなファシスト」の脅威となぜ戦わなければいけないのか、その理由を説明するものだった。

 第2次世界大戦の記念日を利用してウクライナ作戦やクリミア併合を正当化する物語を紡ぎ出すために、プーチンは手持ちの道具をさらに磨き上げる必要があった。

 それまで彼は、ウクライナ人とロシア人を単一の民族としてひとくくりにしていたが、こんどは両者を引き離さなければならなかった。

 第2次世界大戦というレンズを通して見ると、民族としてのウクライナ人は第5列だった。つまり、彼らはロシア人やロシア国家の敵だった。クリミア併合を発表するプーチンの3月18日の演説は、この点をきっちりと反映させたものだった――2011~12年のデモで国家を脅かしたロシア国内の第5列と、ウクライナ人を巧みな言い回しで結びつけたのだ。

 戦時中の第5列といえば、国家の裏切り者であり、ナチスに協力したソ連の人々や民族を指す。そこで、プーチンはソ連の歴史のなかでも混迷をきわめた20年間――ロシア革命から第2次世界大戦勃発までの時期――についてあえて言及した。

 当時、ウクライナ人はたびたびロシア人と対立し、ソ連支配に反対するウクライナの民族主義グループが次々と組織された。その一つであるウクライナ民族主義者組織(OUN)は、国境を越えたポーランドに拠点を置くグループだった。当初、OUNとその指導者のステパン・バンデラは、1939~41年にポーランドとウクライナに侵攻したドイツ軍と協力関係にあった。彼らの心には、ドイツがウクライナ独立を支持してくれる、という(無益な)期待があった。

 OUNがドイツと協力関係にあったという史実を利用して、プーチンは、ステパン・バンデラをヒトラーの右腕とイメージづけようとした(実際のところ、バンデラはヒトラーに会ったこともなく、最後にはナチスとソ連の両方から迫害されることになる)。

 さらにプーチンは、ウクライナの新政府がステパン・バンデラの思想の流れを引くものだと印象づけようとした。彼は数々のスピーチや発言のなかで、国家の生き残りとロシア世界(ルスキー・ミール)の防衛を賭けたロシアの長年の戦いについて繰り返し語り、古い物語を引っぱり出してきた。2014年、ロシアの長い奮闘の最新章の一ページに立ったプーチンは、「ステパン・バンデラのウクライナ」に潜む第2次世界大戦の恐怖の再来を必死に食い止めようとしていたのだ。

巧みな話術で語られる“物語”

 一方、第2次世界大戦中のナチス・ドイツとロシアの協力については、プーチンは巧みな話術を駆使して正当化した。

 ドイツによるポーランド侵攻を容易にした1939年の独ソ不可侵条約と、スターリンとヒトラーによる秘密取引は、ロシアの生存のために必要だったとして弁護された。ところが、ステパン・バンデラとウクライナの民族主義者たちは、過激思想や反ユダヤ主義に駆られ、ナチスに仕えてウクライナのユダヤ人を虐殺したとして非難された。メディア戦略によって広められた「プーチンが語る物語」のなかでは、彼らはホロコーストの実行犯であり、ウクライナの民族主義思想を掲げてロシア人をも攻撃した危険分子だった。

 プーチンは訴えた。今、世界は新たなファシストの台頭に直面している。しかしアメリカや西側諸国の政府は、1940年代の戦時中の同盟ではロシアと手を組んだにもかかわらず、今回はそうしようとせず、なぜかウクライナの過激派を支援・扇動しようとしている。ロシアを崩壊させたいという欲求から、アメリカとヨーロッパの米同盟国は第2次世界大戦の原則そのものを裏切っているのだ。

 プーチンはそれまでの政治論争でも、こうした戦術や言葉遣いを試したことがあった。たとえば2000年代のチェチェン紛争中には、チェチェン人の歴史が利用された。07年4月のタリンのソ連兵戦没者慰霊碑の撤去をめぐる論争ではエストニア人、08年8月のグルジア戦争中にはグルジア人の戦時中の過去がほじくり返された。これもケース・オフィサー流の脅迫の一種といっていい。いずれの場合も、プーチンはこう言っているも同然だった。「われわれはあなたたちの汚れた過去を知っている。ソ連の一部だったあいだは黙っていたが、現在のあなた方の行動を見ていると、もういちど話をしなければいけないようだ。第2次世界大戦の記念の年は、この質問を問いかける絶好の機会になる――当時、あなたたちはどちらの味方だった? そして今、どちらの味方に付くつもりだ?」

プーチンが談話の中で好んで取り上げる「忠誠と裏切り」

 こうした国家や個人の忠誠と裏切りの物語は、プーチンが談話のなかで好んで取り上げるテーマである。

 第2次世界大戦中、プーチンの父は内務人民委員部(NKVD)の破壊工作部隊に所属し、レニングラードからナチスの占領地へと送られた。あるとき、現在のエストニアに入った彼は、敵の協力者を殺し、占領軍にとって有利なものをすべて破壊することを命じられた。いわば特攻作戦だった。プーチンの父はケガを負ったが、何とか生還して故郷に戻ることができた。

 父親の体験を語るとき、プーチンは「戦時中にソ連を裏切ったのは誰か」という強い思いを必ず口にした。そのなかにはエストニア人とウクライナ人が含まれていた。情状酌量の余地はあるとしても、彼らの行動はプーチンにとって許しがたいものだった。ウクライナについていえば、1930年代のソ連の集団農場化政策や大飢饉の被害によって、モスクワ政府に対する敵意がはぐくまれていったことは確かだった。ソ連指導者のニキータ・フルシチョフは、当時の苦痛への謝罪の意味も含めて、1954年にクリミアをウクライナに移管した(そのときにはもちろん、ソ連の解体など想定されていなかった)。

 しかしプーチンにとって、こうした歴史は2013~14年の自身の物語とはいっさい関係がなかったのである。(以上引用 一部、表記変更)

 かくして作られていったプーチンのウクライナを「ナチス」と見なす「歴史認識」だが、それだけで今回の侵攻につなげるのは早計だ。今回のウクライナ侵攻をさらに深く理解するためには、プーチンの「国家観」「民族観」を加味して、さら考察を加えていかなければならない。

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デイリー新潮編集部

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