プーチン大統領は、ロシア国歌をなぜ「ソ連の国歌」に戻したのか?――現代ロシアと「ソ連帝国」の連続性を考える

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 1991年にソ連が崩壊して、新生ロシアが誕生した。1993年には新しい国歌が制定されたが、2000年にロシアの大統領に就任したウラジーミル・プーチンは、それをソ連時代の国歌に戻している。はたして、プーチン大統領は、なぜ国歌をソ連時代のものに戻したのか。

 ロシア史の研究者で、東京大学教授の池田嘉郎さんは、新刊『悪党たちのソ連帝国』(新潮選書)で、ソ連時代の指導者たちに焦点を当てることにより、現代のロシアとソ連との連続性を浮かび上がらせている。以下、同書から一部を再編集して紹介しよう。

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「赤の広場」に響き渡った「ソ連国歌」

 2000年12月31日の晩、モスクワの赤の広場は新年を祝うためにやってきた群衆でいっぱいであった。21世紀をロシアで迎えるためにモスクワを訪れていた私も、彼らのなかにいた。赤の広場にはイベント用の人型の吹き流しが立ち並び、送風機とダンス音響とが騒がしかった。不意に懐かしい雄壮な音楽が流れ、私の耳を打った。ソ連国歌、ではなくてその旋律による新しいロシア国歌であった。

 このメロディは第二次世界大戦中の1943年の大晦日に、それまで国歌であった国際労働歌「インターナショナル」にかえて採用された。ソ連崩壊後の1993年に、ロシアではグリンカ作曲の「愛国歌」が(歌詞はつけずに)国歌となった。だが、ソ連時代の国歌のほうが馴染み深いという声も聞かれた。議論の末にウラジーミル・プーチン大統領が、2000年の末にソ連国歌の旋律の復活を決めた。

 歌詞は1943年版の共作者の1人で、御年87歳のセルゲイ・ミハルコフがふたたび筆をとった。2000年の大晦日の夜には新国歌はすでに施行されていた。それが赤の広場でも大音量で流されて、私の耳に届いたのである。

「歌詞の書き換え」が意味すること

 いま、ミハルコフがふたたび筆をとったと書いたが、正確にはみたびである。1943年に彼がつくった歌詞は、最高権力者ヨシフ・スターリンを讃えていた。1956年にニキータ・フルシチョフによって「スターリン批判」が行なわれると、この歌詞はまずいということになった。そのため、ソ連国歌はしばらくのあいだ、歌詞なしで演奏されるようになった。フルシチョフが失脚したのち、ようやく1977年になって、レオニード・ブレジネフのもとで歌詞のつけ直しが行なわれた。スターリンの名前が出てこない修正版の歌詞が、ミハルコフによってつくられたのである。だから2001年版の作詞は、ミハルコフにとって3度目の登板であった。

 国歌は国の象徴であるから、その変遷は国の歩みを端的に物語る。いま振り返った国歌の遍歴もまた、ソ連・ロシアの歴史に関して2つの点で示唆的といえよう。第1の点は、強力な最高権力者の意志が、歴史のコースの変遷を定めていたということである。しかもその変遷は、頻繁に大きなジグザグを描いた。ソ連・ロシア史では、リーダーの意志がよその国よりも大きな重みをもっており、なおかつ指導者ごとに、その意志の向かう先が大きく揺れるのである。もちろん有名無名の政権幹部や社会に生きる広範な人々を抜きにしては、国の歴史は書けない。だが、ソ連・ロシア史では何といっても指導者の言動が、歴史の方向を決めているのである。

 国歌の遍歴が物語る第2の点は、歴史のジグザグにもかかわらず、何らかの連続性が浮かび上がってくるということである。いずれの歌詞も同じ人物によって書かれたというのは象徴的だ。1943年版のテキストと1977年版のテキストを比べてみても、スターリンの退場という違いはあれ、部分的な修正がくわえられたに過ぎない。2001年版においても、「栄えあれ、われらの自由な祖国よ」という1節がソ連時代の2つの版から継承された。では実際のところ、国の歩みのジグザグにもかかわらず、引き継がれたものは何だったのであろうか。

大家族ソ連

 新著『悪党たちのソ連帝国』では、強力な意志によって国家を統治した6名の人物を通して、ソ連史におけるジグザグについて、そしてまたソ連史を貫く連続性について語りたい。現代ロシアについても論ずべきことは多いが、本書ではソ連史に力を注ごう。1917年の革命から1991年のソ連崩壊まで、その74年の歴史は本当に多くの出来事に満ちているのであるから。

 ソ連史のジグザグはそれぞれの章を追っていけば見えてくるであろうが、そこを貫く連続性についてはここで一言述べておきたい。歴代の指導者の個性は様々であったが、彼らがみな念頭においていたことがあった。それは、ソ連という1つの共同体を守り、発展させねばならないということである。

 ソ連とは国家であるのだが、単にそれだけではなかった。なぜならば、その国家を機能させるための重要な要素として、共産党という団体があったからである。レーニンにとって共産党とは、成員ひとりひとりがエゴイズムを捨てて全体のために活動する、大きな家族のようなものであった。共産党におけるこの家族的イメージは、スターリンのもとでソ連市民全体に広げられた。以後の指導者は、家族共同体としてのソ連を受け継ぎ、発展させようと努めた。

 家族的な共同体という像は、正教会やロシア思想において好んで使われるサボールノスチという語とも重なる。はじめに個があるのではなく、まずは全体があって、そうした全体と不可分のものとして個がある。大まかにいえばこれがサボールノスチである。共同性と訳してもよいであろう。

「ソ連帝国」の遺産を継承するプーチン

 ソ連とは、強力な指導者のもとに統合された巨大な共同体であった。その個々の成員は、近代ヨーロッパの用語を借りて、ソ連「市民」と呼ばれた。だが、近代ヨーロッパ、とりわけフランス革命によって打ち出された、個人としての権利をもつ「市民」の姿と、ソ連市民の像は必ずしも同一ではなかった。

 近代ヨーロッパにおいて、個としての市民を支えた重要な制度は私的所有権であるが、ソ連の法文化では私的所有権は冷遇された。国家こそが第一の、いたるところで現れる、所有者であったからである。個人としての市民が主人公となる近代ヨーロッパ社会とは、ソ連は異なる原理に基づいていた。

 私的所有権をよりどころとする市民が、法の力で権力者を抑制するところに、近代ヨーロッパ諸国の特徴があった。これに対してソ連では、法は権力者が市民を規制するための手段であった。この点でソ連はむしろ、皇帝が君臨した革命前のロシアに似ていた。そして、現代ロシアを率いるプーチンもまた、「ソ連帝国」の遺産を継承しているのだ。

※本記事は、池田嘉郎著『悪党たちのソ連帝国』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

池田嘉郎(いけだ・よしろう)
1971 年、秋田県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士(文学)。専門は近現代ロシア史。主な著書に『革命ロシアの共和国とネイション』、『ロシア革命 破局の8か月』、『ロシアとは何ものか 過去が貫く現在』、『悪党たちのソ連帝国』(新潮選書)、編著に『第一次世界大戦と帝国の遺産』、訳書にミヒャエル・シュテュルマー『プーチンと甦るロシア』、アンドレイ・プラトーノフ『幸福なモスクワ』などがある。

デイリー新潮編集部

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