裏社会の先輩から「役者になれば」と… 苦労人・仲代達矢さんのデビュー秘話 勝新太郎との決裂、和解の裏側は? 「二人は涙を流して抱き合った」

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【全2回(前編/後編)の前編】

 巨星墜つ――。11月8日、戦後の芸能界をけん引した名優・仲代達矢さんが肺炎のため92歳で亡くなった。黒澤明をはじめとする名匠と仕事をし、自身は名だたる後輩役者を世に送り出した。役者一筋の人生を貫いた“最後のスター”の実像を、関係者たちが語った。

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 東京・世田谷区の閑静な住宅街にたたずむ「無名塾仲代劇堂」。11月14日、この堂々たるレンガ造りの建物で行われた仲代の葬儀には、役所広司をはじめ、益岡徹、若村麻由美など、彼の下で修業を積んだ役者たちが大勢参列した。

「ごく身内だけでやってほしい、というのが仲代さんの希望でした。前日のお通夜にも歴代の先輩方がいらっしゃって、最後には大宴会になりました」

 そう話すのは、1991年に入塾した女優・山本雅子(53)である。

「思い出話をしながら、昔教わった劇を即興でやったり、歌を歌ったり。“仲代さーん!”と大声で叫びながら、みんな泣いたり笑ったりしていました」

「人間の條件」「椿三十郎」「切腹」「影武者」「二百三高地」など、出演した映画は150本以上。さらに、毎年のように舞台公演を続け、自ら率いる無名塾では後進の育成に全力を注いだ。

「裏社会に通じた先輩」からの助言

 文字通り、役者一筋に生きた仲代さんだが、

「役者になる前の苦労を、仲代さんは生涯忘れませんでした」(無名塾関係者)

 32年、東京・目黒区生まれ。8歳のときに父が結核で他界した。

「以後は、お母さんが女手ひとつの貧困家庭で仲代さんを育てました。やがて第2次世界大戦が始まると、毎晩のように空襲の中を逃げ回ったそうです」(同)

 12歳で終戦を迎えた。

「夜間部の高校に4年通った仲代さんは、大学に行きたくても経済的に厳しかった。どうやって生きていくか悩んでいたとき、働いていたのが大井競馬場。違法なノミ屋を“摘発”するのが仕事です。そこで一緒に働く裏社会に通じた先輩から“お前は顔が少し変わってるから、役者になったらどうだい?”と言われたのが転機になった」(同)

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