裏社会の先輩から「役者になれば」と… 苦労人・仲代達矢さんのデビュー秘話 勝新太郎との決裂、和解の裏側は? 「二人は涙を流して抱き合った」

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“あの人は任侠の人だった。彼のおかげで役者になれた”

 もとより、食費を削って映画館に通うほどの映画好き。名優ジャン・ギャバンやマーロン・ブランドのファンだったが、まさか自分が役者になろうとは、それまで思いもしなかった。

「俳優座養成所の存在を知った彼は、自分に役者の素質はないと思いつつ、勉強したいと考えた。例の先輩が2000円の受験料を出し、仲代さんは試験に合格。52年、役者人生の一歩を踏み出したのです」(前出の無名塾関係者)

 件の先輩とのエピソードには後日談がある。

「仲代さんは先輩への恩義を感じ続けていた。もしかしたら“カネを返せ”と迫ってくるかもしれない。先輩が来たら、いくらでもお金を出すようにと、俳優座仲間で57年に結婚した宮崎恭子さんに言い含めていた。が、その先輩が接触してくることはなかった。仲代さんは“あの人は任侠の人だった。彼のおかげで役者になれた”と、晩年になっても語っていました」(同)

〈涙が溢れるほど悔しさが募りました〉

 晴れて養成所に入所した仲代さんは、疾風怒濤の日々を送ることに。54年、かの黒澤明がメガホンをとった「七人の侍」で映画初出演を果たすが、

「通りがかりの浪人役で、何時間も歩かされたと聞いています」

 と、監督の長男で映画プロデューサーの黒澤久雄(79)は言う。昼食抜きでひたすら歩いた挙句、出演時間はわずか2秒。仲代さんは生前に、

〈屈辱感で胸がいっぱいになった。涙が溢れるほど悔しさが募りました〉

 と、当時の気持ちを本誌(「週刊新潮」)に打ち明けている。

 しかし、黒澤監督はそれ以後「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」……と、自身の作品に抜てき。とりわけ、「椿三十郎」での鮮血ほとばしる斬られっぷりは、日本映画史に残る名シーンとして語り継がれている。

「昔の役者は、よくお酒を飲んで酔っ払ったまま現場に来ることがありましたが、ストイックな仲代さんにはそういうことがありませんでした。父ともよく“こういうふうにしたい”と演技の話をしていました。父が98年に亡くなった後も、10年以上、線香を送ってくださいました」(黒澤)

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