今さら聞けない「自民党税調」 “ドンの後継者”の就任辞退とインナー外からの「小野寺税調会長」誕生の「意味」とは
「プレスには一切しゃべるな」
山中氏が税調会長の任にあったのは79~82年と、86~89年だ。
元自民党事務局長の村口勝哉氏(92)によると、
「私が自民党で税制担当に任命された72~73年頃、山中先生はすでに税調の副会長を長く務められ、税制に関しては一番の専門家と見られていました」
そんな山中氏の税調への向き合い方が分かるエピソードがある。
「山中先生は税調の幹部会がある日の朝、必ず30分ほど前に党本部に来て、8階の『リバティー・クラブ』でコーヒーを飲みながら新聞を読むんです。で、時間になったら7階に移動して会議に参加する。先生が税調会長を務めていたある時、経団連の副会長数人が税調への陳情にお見えになった時も山中先生は『リバティー・クラブ』にいました」
と、村口氏が述懐する。
「当時、税調の副会長だった林義郎先生に頼まれ、コーヒーを飲んでいる山中先生のところに私が行き、“経団連の方々がいらしてます”と言っても、山中先生は返事しないんです。もう一度言ってもこちらに見向きもせずに新聞を読み続ける。さらにもう一度声をかけたらようやく“俺が税調が始まったら陳情を一切受けないこと、君は知ってるだろ”と言われました」
税調での議論の内容について、“保秘”を徹底させたことは言うまでもない。
「税調の時期になると自宅にも新聞記者が夜回りに来るのですが、僕は絶対に何も話さない。情報漏れがないよう、山中さんから厳しく言われていましたからね。“公平な税制の議論ができなくなるからプレスには一切しゃべるな”と」(同)
こうした徹底的な情報管理ゆえ、インナーたちの議論の内容だけではなく、税制改正のプロセスそのものも、長きにわたって厚いベールに覆い隠されていた。
〈【自民党税調の研究】武器は3000件近い要望をまとめた通称“電話帳” 経済界を牛耳る「知られざる組織」の全貌】では、長年にわたり日本の税制を支配してきた「自民党税制調査会」の歴史と“独特の慣習”について、かつての税調会長や関係者に徹底取材。党内屈指の権力を振るう原動力となった「情報集約システム」や、その力を失うことになった“最大要因”、そして“税調の執念”とも称される「消費税導入の舞台裏」について、6000字以上にわたり詳報している〉
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