豊臣秀頼は徳川家への服従を表明した後も、なぜ「秀頼様」と最上級の敬称で呼ばれ続けたのか?

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 関ヶ原の戦いから大坂の陣までに、もっと注目されるべき出来事が「二条城での家康と秀頼の会見」です。これは豊臣家が公儀の頂点から退き、徳川の主導を認めた歴史的転換点でした。

 しかし、その後の豊臣家は単なる一大名ではありませんでした。依然「様」と敬称され、法令署名からも除外され、特別な地位を保ち続けたのです。服従しながらも特権を残す存在──それは幕藩体制の単純な上下関係では説明できません。
 
 国際日本文化研究センター名誉教授で近世史の第一人者である笠谷和比古氏は、新刊『論争 大坂の陣』(新潮選書)の中で、豊臣・徳川の二重権力体制の実相に迫ります。以下、同書から一部を再編集して紹介します。
 
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依然として「秀頼様」

 この二条城会見の場において、秀頼と豊臣家とは、秀吉以来継承されてきた公儀の頂点に君臨することを止め、徳川の政治主導に服従することを表明した。それは家康と徳川にとって僥倖であることに疑いなかった。
 
 しかしこの徳川に服従を表明した秀頼と豊臣家をどのように扱い、どのように国制の中に位置づけるかはまた難しい問題であった。秀頼が下段にさがって家康を拝礼する所作をとったことで、徳川の優位が確定し、豊臣はこれに従属するものという形が確定した。

 しかるに、この模様を江戸の老臣たちに伝える執政本多正純の文書には、依然として「秀頼様」という敬称が用いられていた。
 
 徳川側文献において、この会見の場で「様」の敬称をもって記されるのは家康と秀頼のみである。家康の子である義直や頼宣たちでも「殿」に止まる。加藤清正らに至っては敬称なしの扱いでしかない。
 
 しかし秀頼に関しては、家康に服従の態度を示してもなお「様」の敬称に変化は無かった。秀頼の権威の高さを物語るものであろう。家康に服従の態度を明確にしても、徳川側でのこの扱いであった。

特別待遇を受けた越前松平家

 さて、そのような存在であった秀頼であるが、家康に服従の態度を明確にした今、どのようなものとして位置づけられることになるのであろうか。

 単なる一大名として扱うことも憚られた。そもそも二条城会見で家康は、徳川と豊臣との対等の相互関係を要望したのだった。しかるに秀頼の自発的意思でもって、徳川の優位、主導性が確定した。
 
 そのような事情からして、秀頼と豊臣家とを一大名として徳川の支配下に置くことは憚られた。徳川幕府の発する法令への遵守義務を明記した三ヶ条誓詞への署名からも除外されるとともに、ある特別待遇が用意されることとなる。
 
 このような一大名ではなく、しかも徳川幕府の支配秩序に組み入れられつつも、なお特権的な待遇が許されている存在、それは「制外の家」と呼ばれていた。筆者はかつて幕藩体制下における越前松平家をそのようなものとして論述したことがある。
 
 家康の二男である結城秀康から始まる越前国67万石を領有する越前松平家は、家康の三男秀忠によって継承された徳川将軍家の兄筋にあたる家柄であったところから、将軍にも遠慮の気味があり、越前松平家の側は将軍に対しても優越的な家柄とする自負もあって、越前松平家は将軍の支配から自由な「制外の家」と称せられたことがあった。
 
 いま公儀としての地位を放擲し、徳川将軍家の支配に服するという態度を表明した豊臣家の位置づけは、この「制外の家」の概念に近いのではないか。

「制外の家」概念の適用範囲

 慶長16年の二条城会見から、同19年の大坂の陣に至るまでの期間における豊臣家の国制上の位置づけとしては、「制外の家」と規定するのが妥当と判断する。
 
 もっとも、この「制外の家」の概念を関ヶ原合戦後の時点から、豊臣家に適用するという見解もあるようであるが、これは如何なものであろうか。「制外の家」の概念は、当該家が特権性を有し、特別の待遇が与えられている状態を意味するが、それはあくまで公儀のうちに包摂され、公儀の頂点にある天下人(それが征夷大将軍であれ関白であれ)の支配に服しているという状態の下でのことである。
 
 しかし豊臣家の存在を見たとき、二条城会見を検討しても明らかなとおり、豊臣秀頼は徳川家康の支配に服してはいなかったのである。それは当時のオランダ人やポルトガル人たちの観察においても、豊臣秀頼は正統なる皇帝(天下人)と見なされていたことと一致している。
 
 豊臣秀頼の存在はそのようなものであり、関ヶ原合戦後における豊臣家を「制外の家」と規定するのは適切ではなく、この二条城会見を経て、秀頼が家康と徳川家の政治主導を認め、その支配に服することを明確にした後の豊臣家に対して、この「制外の家」の概念を適用することを妥当とするものである。

「西国は豊臣に」という国制のデザイン

 もし関ヶ原合戦後における豊臣家を「制外の家」と規定した場合、豊臣家自体の特格性は説明できるけれども、西国問題はどうなるであろうか。「制外の家」はその大名家としての特格性は説明できるけれども、自家を越えた広域的統治の権能は持たない。
 
 家康は、関ヶ原合戦後の領地配置で京都から西の西国については、豊臣系大名でその大半を埋め尽くしたのみならず、より重要なことに1万石から7万石クラスの中小の大名についても徳川の譜代大名を一人も置くことがなかった。
 
 それはこれら西国方面に対しては徳川の直接統治は及ぼさないこと、この方面の統治は大坂城にある豊臣家と秀頼に委ねるという国制のデザインである。これが豊臣・徳川二重公儀体制を提唱する所以である。豊臣家を単なる「制外の家」という存在とした場合は、西国方面の特異な領地構造の説明はできなくなってしまう。
 
※本記事は、笠谷和比古著『論争 大坂の陣』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

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笠谷和比古(かさや・かずひこ)
1949年神戸生まれ。京都大学文学部卒業。同大学院博士課程修了。博士(文学)。国際日本文化研究センター名誉教授。専門は歴史学、武家社会論。著書に『主君「押込」の構造』、『関ヶ原合戦』、『徳川吉宗』、『江戸御留守居役』、『武士道と日本型能力主義』、『関ヶ原合戦と大坂の陣』、『武士道 侍社会の文化と倫理』、『豊臣大坂城』(黒田慶一氏との共著)、『徳川家康』、『論争 関ヶ原合戦』、『近世の朝廷と武家政権』など多数

デイリー新潮編集部

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