関ヶ原合戦で負けても、江戸とは比べ物にならないほど繁栄していた「豊臣秀頼の大坂」
「関ヶ原合戦に負けた豊臣秀頼の時代、大坂はすでに衰退していた」──そんなイメージを持つ人は少なくないかもしれません。だが、当時の大坂を歩いた外国人の記録や、オーストリアに残る屏風絵が語る風景は、まったく逆のものでした。
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船場を中心に一万五千軒もの店が立ち並び、日本一の商都として繁栄を極めていたのは、豊臣秀吉の時代ではなく、むしろ息子の秀頼の時代でした。江戸がまだ草深い田舎だった頃、大坂はすでに二十万都市として黄金期を迎えていたのです。
国際日本文化研究センター名誉教授で近世史の第一人者である笠谷和比古氏は、新刊『論争 大坂の陣』(新潮選書)で、輝ける大坂の真実を描き出します。以下、同書から一部を再編集して紹介します。
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上方経済の中心「船場」
今も昔も大坂の街の商業的賑わいの一郭をなすのが船場である。船場は豊臣時代に大坂城の西部一帯を造成してつくられた、商工業者のためのビジネスゾーンである。
当時、この街の様子と規模を知り合いに伝えているオランダ商館文書によるならば、その広さは「我々の最も強力な大砲の最長着弾距離」ほどもあり、その巨大なエリア内の店舗の数は1万5000軒を超えるとしていた。
そもそも、江戸は必要とする物財を大坂を中心とする上方からの移入に依存しており、江戸自前の経済である「江戸地廻り」の物財が上方方面からの移入品と匹敵するようになるのは18世紀の後半以降を待たなければならなかったのである。
黄金都市大坂の繁栄
豊臣時代の大坂城と大坂の街の賑わいを伝える屏風絵が、オーストリアの第二の都市グラーツにあるエッゲンベルク城に残されている。
この屏風には東横堀川の西隣に広がる船場の華麗な姿も描きこまれている。東横堀川は豊臣大坂城の西端を南に流れ、商工業者の店舗と住居からなる町人居住地区としての船場にとっては、その東端にあたることから、船場と大坂城郭内とを分かつ堀割りとしてあった。
屏風絵の第二扇にタテに流れている川がそれである。その右側の部分が船場地区であり、多くの橋が架かって大坂城郭内との往来ができるようになっている。
船場は、北は淀川(現、大川)の分流である土佐堀川、南は心斎橋で知られる長堀川、東西は東横堀川と西横堀川で囲われた、南北2キロ、東西1キロからなる長方形の広大な区域である。
慶長3(1598)年に始まる大坂町中屋敷替えによって形成されたのが船場地区であり、その後、江戸時代を通して、さらには近代に入ってもなお大阪の経済活動の中心として、これを担い続けてきた。
東西1キロ、南北2キロの規模を誇る巨大なエリアが、屏風絵に見えるような美しい外観を備えた店舗1万5000軒余によって埋め尽くされていたというのである。当時の大坂の繁栄ぶりが髣髴とされるであろう。
船場の整備は秀頼時代
すなわち大坂の陣のおりに記されたオランダ商館文書には、次のようにある。「これ(船場のまち)は川(東横堀川)の西側に位置しており、その(大坂の陣勃発の)5~6日後に全焼した。
というのも、秀頼の命令の下に1万5000軒の家が全焼させられ、四方に大砲の射程よりも広い空地ができた」。
そして注意しなければならないことは、船場方面の経済的活況を示しているこの大坂の景観は、秀吉時代のものではなく、秀頼時代のものだということである。よく、このエッゲンベルク城の大坂図屏風は豊臣秀吉時代の繁栄を描いたものとして紹介されているが、誤りである。
秀吉時代ではなく、秀頼時代の大坂の風景なのである。前述したように、船場商業地区の整備は秀吉の亡くなる慶長3(1598)年から着手される。つまり秀吉生前には、船場はこのような整備された街区としては存在していなかったのである。
17世紀中頃から繁栄する江戸
それ故、17世紀の前半では彼我の経済的格差は歴然としていたことであろう。慶長14(1609)年頃に日本を訪れたスペイン人のロドリゴは、大坂の人口は20万を数え、日本一の繁栄を示していると記していた。
同時期における江戸城下町の形成については、ようやく慶長10年代に丸の内が大名屋敷で満ち溢れるようになると、商工業者の屋敷や店舗は道三堀方面から次第に移動し、外堀(元、平川)を越えた日本橋方面を開発してそこに新たな町人街を形成することになるが、慶長年間について見るならば、その規模は大坂船場のそれには比すべくもなかったであろう。
歴史書にも教科書にも、「1603年、江戸幕府の成立」と書いているものだから、江戸が急に日本の中心になったように思いこんでしまう。従って、人で混雑し、日本橋界隈に商工業的店舗や施設も軒を連ねているような殷賑を想像してしまう。しかしながら、そのような江戸の景観が形成されるのは17世紀の半ば頃を待たなくてはならないだろう。
※本記事は、笠谷和比古著『論争 大坂の陣』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。
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