「関白」と「征夷大将軍」はどちらが偉いのか?――信長・秀吉・家康の官職の背景を考察する
源頼朝・足利尊氏・徳川家康……彼らの共通点はなにか? 「征夷大将軍であり、幕府の創設者」です。だからこそ、「征夷大将軍こそ唯一の天下人」──そう信じ込んでいる人も少なくないのではないでしょうか。
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しかし、よく知られる通り、豊臣秀吉は征夷大将軍には就かず関白のまま天下を掌握しており、また織田信長に提案された官職も征夷大将軍・関白・太政大臣の三職でした。つまり天下人の座は、将軍職に限られていたわけではなく、最高権力の称号は複数のものが存在していたのです。
国際日本文化研究センター名誉教授で近世史の第一人者である笠谷和比古氏は、新刊『論争 大坂の陣』(新潮選書)の中で、それぞれの官職の実情について解説しています。以下、同書から一部を再編集して紹介します。
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多くの議論において共通の前提となっている「当然の諒解」というものがあるように見受けられる。それは「将軍(征夷大将軍)は唯一の天下人である」と見なす想念である。
この想念は、家康および周辺の人々の位置づけや、彼らをめぐる政治体制を考察するうえで常に登場してくる問題であり、そこでは明示すると暗黙のうちとに拘わらず、また意識すると無意識であるとを問わず、人々の議論を支配する不動の枠組として働いているかのようである。疑問の余地なき当然のこととして。
朝廷から信長に提示された「三職推任問題」
しかしこの考えが妥当ではないということは、いくつかの事実によって証明される。信長の晩年のことであるが「三職推任問題」というのがある。
信長が朝廷の官位体系から離脱をして独自行動をとっていることに不安を覚えた朝廷筋は、信長を朝廷官位体系につなぎとめるために、征夷大将軍、関白、太政大臣の三職のうち、いずれであれ信長の望みのままと提案している。
もし征夷大将軍が唯一の天下人の職位であるならば、そして武士社会の唯一の統率者であるならば、三職の提案は無意味であろう。三職を提案したということは、関白や太政大臣もまた征夷大将軍と並ぶ形で、武士階級を統率し、天下人として君臨しうる資格を有するという諒解が存在すればのことであろう。
関白のまま天下人になった秀吉
次に秀吉の場合である。秀吉は天正13(1585)年に関白に任官している。そして天下支配を進めていたのであるが、同15年9月のこと、当時備後国の鞆の浦に居していた足利将軍家の第15代将軍の足利義昭が、九州征伐におもむく途中の秀吉と会談した結果、鞆を離れて上洛することを決断し、落飾して征夷大将軍の地位からの離脱を表明した。
これによって足利将軍家が消滅したのであるが、秀吉は関白の地位のままであり、新たな征夷大将軍に就くという姿勢はみじんも認められなかった。
秀吉は関白の地位のまま天下統一に邁進するのであって、征夷大将軍に転任する、ないし兼任するという態度がまったく見られなかったのである。これなども、征夷大将軍が唯一の天下人とする想念の誤りを端的に示していると言ってよいであろう。秀吉は、関白という職位で軍事統率権も発動できるし、天下を支配する唯一の天下人でありうることに何の疑いも抱いていなかった。
「天皇の代理者」としての軍事関白制
重要なこととして、藤原摂関家の関白は文官としてのそれであったけれども、秀吉の関白は軍事関白であったという点が見落とされてはならない。
関白は天皇の代理者であるが、三種の神器の一つが草薙剣である事に示されるように、天皇は本来的に軍事統率の権能を有している。神武天皇の昔、天皇はみずから甲冑を帯し、山川跋渉して敵を平定する軍隊の総大将としてあった。
従って関白についても、「(天皇から)御剣を預かり候役は、天下之儀、切り従ゆべきため」というのが秀吉の立場であった。秀吉の関白は軍事関白制としてのそれなのである。
関白が単なる文官ではなくて軍事統率の権能をも兼有するということは、信長に対する三職推任の事実からも裏付けられる。それは秀吉政権を待つまでもなく、征夷大将軍と選択的位置にある官職として認識されていたということである。
※本記事は、笠谷和比古著『論争 大坂の陣』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。
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