弟と義妹、甥がいなければ「ゴッホの伝説」は生まれなかった “幻”になりかけた早逝の画家を世界に押し出した力とは

ライフ

  • ブックマーク

 フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)の軌跡を「家族」からたどる大規模展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」が、東京都美術館(東京・上野)で開催中だ(12月21日まで)。わずか10年の制作活動を駆け抜け、37歳で世を去った画家の作品と名声は、ゴッホの弟、その妻、そして甥の存在無しには今日ほど世界的なものにはなっていなかったかもしれない。いかにして現在の「ゴッホ像」は形作られていったのか。そのドラマに迫る。

 ***

「ゴッホ」と聞くと、頭の中にパッと電灯がともったように《ひまわり》や《糸杉》の絵を思い浮かべる。

 でももしヨー(ヨハンス・ファン・ゴッホ=ボンゲル)という一人の女性がいなかったら、私たちの脳にパッと浮かぶこれらの反射は起こらなかったろう。

 ゴッホは画家を志して10年でこの世を去った。たった10年しか、絵を描いていないのだ。しかもその10年の最初の3年間は素描の訓練に費やしている。それから描き始めた油絵は暗い色調だった。やがてパリに出て最先端の絵画を目の当たりにして「この暗い色調は、もしかして古臭いのでは」と恐る恐る明るい色を使い始めたのが亡くなる4年前。つまり、私たちが「ゴッホ」と聞いてパッと思い浮かべるゴッホ特有の色彩と筆使いのスタイルは、たった4年の間に生み出されたものなのだ。

弟、弟嫁の尽力

 さてゴッホが画家になり、そして画家としての生活を続けられたのは、テオ(テオドルス・ファン・ゴッホ)という弟の存在無くしては語れない。このテオこそゴッホに画家になるよう勧めた張本人であり、一番の理解者であり、精神面でも生活面でも支えた、ソウルメイトだった。

 ゴッホが27歳で画家になる決意をし、37歳という若さで亡くなった後、ではこのテオがゴッホの残した大量の作品を世の中に押し出していったのかと思いきや、なんとテオはゴッホが亡くなって、たった半年後に病気でこの世を去っている。

 ゴッホの物語はあっけなくここで終わりを告げて、ゴッホは「幻の画家」としてうっすらと美術史の背景に溶け込んでしまってもおかしくはなかった。

 ところがテオ亡き後動き始めたのがテオの妻・ヨーだった。

 このヨーの存在を驚きをもって知ることができるのが、この展覧会の醍醐味でもある。

ヨーのまなざし

 ヨーは美術の専門家ではなかった。なのだがヨーは自らの目でゴッホの作品を見、その重要性を感じ取り、愛情深く、そしてゴッホの作品が広く世の中に知られるように戦略的に動き始めた。

 ヨーは文学を学んでいて、翻訳の仕事の経験があったことも幸運だった。テオが保管していた膨大なゴッホからの手紙を整理し始めたのだ。力強く、熱を帯び、芸術への思いや苦悩を余すことなく言語化しているゴッホの手紙は、作品を理解するための副読書ともなり、世の中へゴッホを押し出す力にもなっていった。

 そんなヨーのまなざしが生きているかのように、会場にはゴッホの言葉が印象深く、散りばめられている。

 芸術家としてこうありたい、という情熱的な願い、同世代作家の作品への惜しみない賛辞、熱心に集めた新聞挿絵の版画や、あこがれてやまない浮世絵への思い。興奮ぎみに語られた言葉と共に作品を見ると、見慣れた浮世絵ですら、まるで初めて出会うかのように感動的に見えてくる。

次ページ:自画像を「まるで死神のような顔」

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。