家康はなぜ「豊臣との共存」から「大坂の陣」へと方針を急転換したのか?――近世史の第一人者が注目する「駿府城火災事件」

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 慶長5(1600)年に関ヶ原合戦で雌雄を決した後も、徳川家と豊臣家は婚姻を通じて関係を強化するなど、共存を図って来ました。ところが、慶長13(1608)年を境に、家康の豊臣家への態度は急速に冷え込み、やがて「大坂の陣」へとつながっていきます。孫娘の嫁ぎ先でもある豊臣家に対して厳しい視点が生まれた転換点はいったいなんだったのでしょうか──。

 表面上は大きな衝突もなかっただけに、この急変の理由は専門家の間でも長く謎とされてきました。笠谷和比古・国際日本文化研究センター名誉教授は、新刊『論争 大坂の陣』(新潮選書)の中で、その背後に潜む可能性として、駿府城の2度にわたる火災事件に注目します。...

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