「原稿料は川口松太郎の10分の1」――五木寛之が振り返る“昭和文壇の舞台裏”

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【全5回の第5回】

「原稿料は川口松太郎の10分の1」――そんな言葉に、昭和文壇の空気がにじむ。

 昭和7年生まれの作家・五木寛之さんは、戦前・戦中・戦後を通して「昭和百年」の大半を生き抜いてきた人物だ。

 そんな五木さんが語る昭和の記憶には、“人と人との距離”や“紙とペンの手ざわり”が息づいている。

 第1回直木賞を受賞した川口松太郎は、昭和を代表する人気作家のひとり。“文壇の格差”と“編集者との距離”をめぐって、五木さんが振り返るのは、原稿用紙と電話が主役だった時代の舞台裏。すべてがアナログだった時代ならではの珍妙なエピソードだ。

 最新刊『昭和の夢は夜ひらく』(新潮新書)から5回に分けて紹介する本企画、最終回は、作家デビューを果たした昭和41年当時の記憶から見えてくる、昭和文壇のもうひとつの風景。

 ***

原稿用紙と私

 私が新人賞をもらって作家デビューをしたのは、一九六六年の春だった。

 当時、私は金沢に住んでいた。街の中心部から少し離れた小立野(こだつの)という台地の一角である。風呂も電話もないアパートで、すぐ目の前に堂々たる煉瓦の塀がそびえている。

 それが有名な建築家が設計した金沢刑務所の塀であることは後で知った。

 窓からは遠くの山々がよく見えた。

 小説雑誌の新人賞に応募したのは、一九六五年の秋だった。年の暮れに、大家さんが、「東京から電話ですよ」

 と、呼びにきてくださったので、あわてて雪道を下駄ばきで大家さんのお宅へ急いだ。

「あなたの応募作が新人賞にきまりました」

 と、編集部の人が言った。

「受賞式は、出席していただけますね」

「もちろん」

 と私は答えた。「掲載誌はいつ出るんでしょうか」

 受賞もとびあがるほど嬉しかったが、それよりも選考委員の作家のかたたちの選後評がなによりも読みたかったのだ。

「発表号の雑誌に掲載する受賞の言葉をいただきたいのですが」

「ハイ、すぐに送ります」

「電話送稿でも結構ですけど」

「いえ、書いて、郵便で送ります」

 なにしろファクシミリさえない時代だった。受賞後、仕事がいそがしくなると、タクシーに頼んで小松空港から航空貨物で送ったりするようになる。

 原稿だけを運んでもらうのだが、当然のことながらタクシー料金はかなりの額だった。

 新人賞の受賞を伝えてくれたのは、編集部の最長老、というか、相当の年配のかたで、あまり言葉がはっきりしないだけでなく、耳のほうもかなり心配な感じだった。

〈詩的〉が〈素敵〉に

 のちに執筆の仕事がめちゃくちゃいそがしくなって、電話送稿したりする場合など大変だった。

 小説の題名をあとから電話で送ったことがある。ギリギリまでいいタイトルが頭に浮かばず、題名が最後になってしまったのだ。

 ちょっと凝った物語りだったので、ありきたりの題名をつけたくなかったのである。

「『詩的な(注:傍点) 脅迫者の肖像』としてください」

 と、私は言った。「わざとキザな題にしたのですが」

「わかりました。では、その題名で」

 大丈夫かな、と、なんとなく不安な予感がしたのだが、とりあえず締切りギリギリにまにあった解放感のほうが先だった。

 しかし、新しい雑誌がでて、目次に大きく題名がのっているのを見て、私はびっくりした。なんとその小説の題名は、

〈素敵な(注:傍点) 脅迫者の肖像〉

 と、なっていたのだ。

 そんな行き違いが何度かあったものの、とても親切な老編集者だった。

 あるとき、ふと、

「原稿料が安くてごめんなさいね」

 と、言われた。

「べつに安いとは思ってません。でも、そんなに高い作家っているんですか」

 と、私がたずねたのは、単なる好奇心からである。すると、電話のむこうで声を低めるようにして、

「あなたの原稿料は、川口松太郎先生とか、舟橋聖一先生の十分の一ぐらいですから」

 と、言われた。

 正直いって、全然びっくりはしなかった。世の中はそういうものだと、思っていたからである。戦前、昭和初期の有名作家のなかには、小説を一篇書くと家が一軒建つほど高い原稿料をとる人もいたらしい。

退職金がわりのナマ原稿

 当時はものを書く人は、みんな原稿用紙に手書きだった。私は今でもそうである。

 手書きの作家たちが次々と去って、淋しい気持ちもあるが、あまり時代から取り残されているような気はしない。私は新しい原稿用紙に文字を書くのが好きなのだ。

 若い頃はヘミングウェイがタイプで原稿を打っている写真をみて、うらやましい気がしたものだが、今はそうでもない。コクヨの原稿用紙に、パイロットの万年筆で原稿を書き続けて一生を終ることになるのだろう。

 昔、ある小出版社につとめていた老婦人に聞いた話だが、その出版社が倒産することになったとき、社長に部屋に呼ばれた。

 大きな机の上にさまざまな作家、学者のかたがたの原稿がずらりと並べてある。

「退職金がだせなくて申し訳ない。そこで当社に原稿を書いてくださった先生がたのナマ原稿がこんなにあるので、退職金がわりにどれでも好きなものを持っていきなさい」

 と、社長が言ったそうだ。

「で、どうしました?」と私。

「もちろん、いただきました」

「どなたの原稿を――」

 彼女が小声で言ったのは、超有名な哲学者の名前だった。

「小説家の原稿は頂戴しなかったんですか」

 と、私がきくと、彼女は笑って、

「価値があるのは、高名で少く仕事をなさった先生です。作家は、まあ、ね」

 まあね、と言われるのも無理はない、と思ったものだった。 (2025・4・24)

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