「抱き合わないで踊るダンスは、お互いに相手を値踏みする」──五木寛之の記憶に残る“昭和新宿の夜の熱気”

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【全5回の第4回】

「抱き合わないで踊るダンスは、お互いに相手を値踏みする」――昭和のダンスホールには、そんな“勝負の空気”が漂っていた。

 昭和7年生まれの作家・五木寛之さんは、戦前・戦中・戦後を通して「昭和百年」の大半を生き抜いてきた人物だ。

 そんな五木さんが語る昭和の記憶には、“街の息づかい”が詰まっている。

 最新刊『昭和の夢は夜ひらく』(新潮新書)から5回に分けて紹介する本企画、第4回は、昭和30年代の新宿で体感したダンスホール文化と、青春の熱気がほとばしる一篇。大学を中退した昭和30年代、新宿の業界紙で働いていた青年時代の街の光景だ。

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昭和は踊る時代だった

 昭和三十年代後半、大学をヨコに出た私は、新宿で働いていた。

〈ヨコに出る〉というのは、中退のことである。私の場合は抹籍なので、本当はヨコにもタテにも出ていないのだが、のちに正式に中退の名誉を頂戴したので、まあ、ヨコに出た、と称する資格はあるだろう。

 当時、二十代後半だった私は、新宿二丁目で働いていた。

 と、書けば、びっくりなさる読者もおられようが、要するに新宿二丁目にあるビルのなかの、ある業界紙の編集室につとめていただけの話である。

 そのビルは内外ビルといい、『内外ニュース劇場』という変った映画館の隣りにあった。

 何が変っているかといえば、ニュース劇場と名乗っているのに、ニュース映画の後にストリップの実演があったのだ。どちらかといえば、そのステージのほうがメインだったのかもしれない。

 たぶん新宿の街中にストリップ劇場を置くことに抵抗があったのではあるまいか。

 名目上はニュース映画の上映館で、附録にショウがくっついているという変った劇場だった。

『交通ジャーナル』というタブロイド紙の編集長の私の席は窓際にあり、劇場の裏口の小庭が見おろせた。上演の合間に、半分裸の踊り子さんたちが、七輪で魚を焼いていたりするのがよく見えた。なかなか風流な一画ではあった。

 当時、まだ二十代だった私は、仕事が終ると、新宿のダンスホールによく通った。ただ坐って音楽を聴いているよりは、体を動かしているほうが性に合っていたのだろう。ダンスといってもかならずしも男と女が組み合って踊るダンスばかりではない。当時はやっていたのはむしろ本格的なジルバをはじめ、マンボ、ツイスト、ドドンパ、チャチャチャから、オーソドックスなルンバや土俗的なパチャンガまで、離れて勝負する激しい踊りだったのだ。

新宿の夜は激しくふけて

 武蔵野館ちかくの地下のホールやオデヲン座のビルのホール、コマ劇場地下ホールなどが人気をあつめ、そのほかにも昼間からやっているホールがいくつかあった。

 社交ダンスといえば、すぐにチークダンスしか連想できない戦前の世代とちがって、そこには若者たちの熱気が渦巻く運動会のような雰囲気もあったのだ。

 横浜から乗り込んでくるグループもいる。ジルバを踊ると、彼らがホールの真ん中を占拠する。いわゆるハマジルと称する独特の踊りで周囲を圧倒し、バンドのほうも、つられて熱演、といった具合で、昭和新宿の夜は激しくふけていくのであった。

 私はワルツやトロット調のダンスは苦手だった。ツイストも下手だった。自信があったのは、盆踊りふうのドドンパや、我流マンボなどで、ジルバも、まあ、そこそこに踊った。

 抱き合わないで踊るダンスは、お互いに相手を値踏みする。こいつはセンスがないな、とみれば一曲でサヨナラだ。

 ドドンパというのは戦後昭和の踊りである。昭和に生まれ、昭和とともに消えた。

 ドドンパのリズムを創ったのはだれか、については、いろんな説がある。アイ・ジョージという人もいるし、まだ決定的な論はでていないが、私はフィリピンから来たペペ・メルトらのバンド・リーダーの説を支持している。

ダンスホールの熱気

 私がのちにレコード会社でプロデューサーまがいの仕事をしていたときに、彼らのバンドでLPレコードを作ったことがある。『RUSSIAN GOES MODERN』というロシヤ民謡をジャズふうにアレンジしたLPだった。

「ドドンパは、おれたちが作った」

 と、バンドの一人が言ったことをおぼえている。あのリズムの無国籍性を思えば、うなずけないでもない感じもするのだが。

 昭和は、みんなが踊る時代だった。戦前、『東京音頭』にはじまる〈音頭ブーム〉は、全国に波及した。いまでも盆踊りには『炭坑節』や『常磐炭坑節』とならんで、必須のナンバーだ。

 令和のいまは、プロやアマチュアの集団ダンスをテレビで観る時代である。踊りの技術も洗練され、パフォーマンスの質も高い。しかし、「あなた踊るヒト、わたし観るヒト」といった感じがないでもない。

 ときどき街の空き地や広場で自由に踊っているグループをみかけることもあるが、そこから将来、オリンピックに出場するアスリートがでてくるのかもしれないと思う。

 しかし昭和二十年代から三十年代にかけての、あのダンスホールの熱気は、今はない。と思う。

 戦後、〈のど自慢〉のブームがあり、続いて〈うたごえ運動〉のブームがあった。その後にきたのがダンスブームである。それはラテン系音楽のブームでもあった。

 現在はグループダンス、集団ダンスのブームかもしれない。わたしたち踊るヒト、あなたたち観るヒト、といった感じもする。ダンスだけではなく、すべてのアクションがそうなってきつつあるような気がする。

 NHKの国会中継番組をみていても、あなたがた演じる人、こっちは観る人、という感じになってくるのは私だけだろうか。

 かつてのダンスホールは、上手も下手も関係なく、胸を張って踊っていた。

 そんな時代がなつかしいような気もする。 (2025・4・17)

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