「モハメッド・アリ」が明かした“名前に込めた思想” アリとの対話で五木寛之が受け取った言葉
今年は昭和100年・戦後80年という節目にあたる。激動の時代を振り返る企画はテレビや新聞で多々目にするが、実体験を自ら証言できる世代は年々少なくなっている。
現在、93歳の作家・五木寛之さんが生まれたのは昭和7年(1932)。国内では青年将校による5・15事件が起こり、国外では満州国が建国された年だ。
戦前・戦中・戦後、いわば「昭和百年」の大半を生き抜いてきた五木さんだけに、数多くの“伝説的人物”たちとのエピソードを持つ。
きれいに整理された「昭和史」からは消えてしまう時代の息づかいを、最新刊『昭和の夢は夜ひらく』(新潮新書)から5回に分けて紹介しよう。1回目は、伝説のボクサー、モハメッド・アリとの対面と忘れ得ない言葉である。
***
速報「おこめ券」が不評の鈴木農水相 父親に“あやしい過去”が… 後援会幹部は「あいつは昔、週刊誌沙汰になったことがある」
黒と白のブルース
カシアス・クレイに会ったことがある。
たぶんもう何十年も昔のことだろう。一九六〇年のローマオリンピックで金メダルを獲得し、プロに転向。その後ヘビー級世界チャンピオンとなり、通算十九回王座を守った。
すごいのはその後みたびチャンピオンの座に返り咲いたことである。リング名をイスラム系のモハメッドに変えたり、ベトナム戦争への徴兵を拒否してタイトルを剥奪されたりもした。若い頃は〈ホラ吹きクレイ〉などと呼ばれたこともある。とりあえず伝説のチャンピオンであったと言っていい。
ある年、彼が来日したときに雑誌の仕事で対談をすることになった。言葉が通じないのに対談なんて、と固辞したのだが、天才的な同時通訳をつけるからと説得されて、おそるおそる会場のレストランに出かけたのだ。
会ってみてびっくりしたのは、マスコミで流布されている〈ホラ吹きクレイ〉のイメージとは全くちがう、内気な感じの人物だったことである。
「なにか食べますか」
と、きくと、「いらない」と言う。
「減量中だから」
と、手を振ったが、私が魚料理を注文したら、彼は唾を飲みこむようにして、
「私にも、白身の魚を少し」
と言う。
通訳を介しての会話のなかで、特に彼が体を乗りだすようにして語ったのは、言葉についての問題だった。
「差別の問題は、言葉の問題です。ふだん使っている言葉が差別的である以上、差別意識はなくならない」
そして彼は〈ブラック〉という形容詞のつく言葉をずらずらと列挙してみせた。
「ブラック・マーケット、ブラック・リスト、ブラック・メール、ブラック・マジック、あげればきりがありません。それに対して〈ホワイト〉は、すべて善と美の形容詞です。エンジェルケーキといえば、真っ白なケーキ。〈ホワイトハウス〉は民主主義の象徴。意識の深いところで、白は善、黒は悪というイメージが固定しているのです。それがいやで私はモハメッド・アリと改名したのです」
モハメッド・アリの言葉
言われてみれば、たしかにそうだ。日本語でも黒は悪、白は善、のイメージは固定している。〈黒白(こくびゃく)をつける〉といえば黒は悪、白は正義。警察ミステリーなどでは、〈クロ〉は犯人、〈シロ〉は潔白ときまっている。〈腹黒い〉とか〈黒幕〉といえば悪いやつ、〈白衣の天使〉はヒューマニズムの象徴だ。
〈青天白日〉などともいう。最近は〈黒歴史〉などという言い方も流行(はや)っているらしい。
いずれにせよ、白が善、黒が悪、というイメージは、私たちの無意識の世界に根づよく棲みついていて、いまも変らない。
私たちは言葉で考える。言葉で行動する。言葉が変らないかぎり差別はなくならない、というモハメッド・アリの言葉は私の心に刺さった。そもそもモハメッド・アリでは、出てこない辞書もある。ムハンマド・アリ、である。
以前、日本人は自分たちのことを自嘲的にバナナにたとえることがあった。外側は黄色いが、ひと皮むけば中身は白い、ということらしい。日本人は、よく黄色人種などと呼ばれたりする。私はその言葉が嫌いだ。有色人種のほうが、まだましな気がする。自分の肌をよく眺めてみると、褐色ではないが、黄色ではない。日本人のなかには、まっ白な肌の人もいるし、褐色に日焼けした人もいる。アジア・アフリカ系の人びとを大ざっぱに呼ぶなら、有色人種というのが一般的だろう。
しかし、肌の色で人種を区別するのは、まちがっているとする立場もある。それは正しい意見だが、どうにもならない部分もある。言葉は何万年もかかって出来あがってきたものだからだ。
言霊の幸わう国
女性が配偶者のことをどう呼ぶか。
以前は「うちの主人が――」といった言い方が一般的だった。ちょっとくだけた表現だと、「うちの旦那が――」とか、ときには「うちのダンツクが――」などと言ったりもした。
「うちの夫が――」というのは、どことなく形式的な感じがしないでもない。離婚協議の際などに使いそうな言い方である。
「うちのダーリンはね――」
と、言う人もいる。
「でも、まあ、一般的には〈主人〉を使うことが多いな」
と、おっしゃる御婦人がたが多かった。
夫が「主人」なら、妻は「使用人」である。言葉には〈言霊(ことだま)〉というものがある。この〈言霊〉というのは、無意識の意識のことだろう。
日本は〈言霊の幸(さき)わう国〉という。
言葉を変えることは、はたして可能なのだろうか。そもそも、世界は言葉で成り立っているのだ。どうすればいいのか。私には自分が、出口のないトンネルにいるように思われる。
今朝、近くの坂道を登っていると、上から真黒い犬を連れた人が降りてきた。黒犬の舌が鮮やかに赤い。毛並みも美しく、体つきもしなやかで見事な犬である。飼い主さんにとっては自慢の名犬だろう。
しかし、やはり一瞬、足がすくんだ。すれちがうときも、少なからず緊張した。
むずかしいものである。 (2022.5.5/12)











