「モリシゲ先生にお尻をなでられたら一人前」──五木寛之が語る“昭和のズレた常識”と昨今の「昭和ブーム」への違和感
【全5回の第3回】
「モリシゲ先生にお尻をなでられたら一人前」――そんな“伝説”がまかり通っていた昭和の芸能界。
昭和7年生まれの作家・五木寛之さんは、戦前・戦中・戦後を通して「昭和百年」の大半を生き抜いてきた人物だ。
そんな五木さんが語る昭和の記憶には、“時代の息づかい”が詰まっている。
最新刊『昭和の夢は夜ひらく』(新潮新書)から5回に分けて紹介する本企画、第3回は、ハラスメントという言葉すらなかった時代の“空気”と、現代の「昭和ブーム」に対する冷静な視線。
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ハラスメント天国
あいかわらずの『昭和ブーム』である。
昭和ヒトケタ生れである私のところにも、しばしば取材の申し込みがあって落ち着かない。
〈戦時経済と庶民の生活〉
などというお硬いテーマもあれば、
〈昭和の遊廓について〉
などという民俗学的主題もあって、事前によく内容をきいておかないと、現場で混乱したりしかねないので注意が必要だ。
「そういう内容なら、荷風さんにでもおききになったらいかがですか」
と、冗談のつもりで言ったら、
「カフーさん? どちらのカフーさんですか」
と、きき返されたのにはびっくりした。
「たしか市川にお住いだったと思いますけど」
私は若い頃、しばらく千葉県の市川市に住んでいたことがある。昭和三十年代前半の頃だ。いちど京成電鉄の市川真間駅で、浅草にお出かけになるらしい荷風先生をおみかけしたことがあった。
「そのかたの電話を教えていただけませんか」
「もう、とっくにお亡くなりになりましたよ」
「なーんだ」
と、ムッとした口調で電話が切れる。
ひと口に昭和というが、昭和は重層的な時代であった。
いま一般に語られているのは、昭和という時代の表層に過ぎない。ケーキでいうなら上のクリームのデコレーションだけをスプーンですくって嘗めているようなものだ。長時間の映像を早回しで観たところで、実態はわかるはずがない。
たとえば売春防止法が制定されたのは一九五六年だが、実際に遊廓の灯が消えたのは二年後のことである。新宿の赤線街で『螢の光』を合唱した世代は、もうほとんどいないだろう。
モリシゲ先生のお尻伝説
当時と今とで大きく変ったのは、男性と女性の差別観だけではない。
今や、パワハラ、モラハラ、セクハラ、カスハラなど、新しい言葉が常識となった。当時はハラスメントという言葉さえ聞いたことがなかったのである。
先日、お亡くなりになった或る女優さんが、若いころ対談の席で、
「きのう楽屋で、モリシゲ先生にお尻なでられちゃった」
と、嬉しそうにおっしゃったことがある。
名優、森繁久彌さんにお尻をなでられたら一人前、という伝説が、あの世界には昔あったらしい。
そのうちアニハラなんて言葉も出てくるかもしれない。
アニハラ、アニマルハラスメントのことだ。私は昔、マンションで飼っていた犬が、ペルシャ絨緞の上でオシッコしたのを見て、足で蹴とばしたことがある。
いまなら、さしずめ非難囂々(ごうごう)だろう。
もっとも、その犬の命日には、今も写真の前に必ずおそなえものを欠かさないのだが。
アルハラ、というのもありそうだ。酒を飲めない人に無理やり飲ませる風習が、この国にはある。私の新人時代は、大酒を飲むと尊敬される気風が文壇にはあった。
故・野坂昭如氏なども、相当ムリして飲んでいた感じがあった。まだ文壇に先輩、後輩の序列が残っていた時代である。
「あいつは酒乱でね」
と、いえば、彼はひとかどの作家である、と公認されるような傾向がジャーナリズム「オレの盃が受けられんのか」
と、ヤクザ映画まがいのセリフを口にする先輩作家もいたのである。
呑めない酒を無理して飲み、ヘドを吐いて倒れるというのが作家の本領だ、みたいな古い考えに固執する気風も、当時はあった。
徹夜の議論なら嬉(よろこん)でつき合いましょう、ただし素面(しらふ)で、というのが私のスタンスだったから、随分いじめられたこともあったのだ。
差別の深淵
当時は文芸ジャーナリズムも、文壇を活気づける酒乱作家をもてはやす気配が一般的だった。いまはどちらかといえば、アル中気味の書き手は敬遠される傾向にあるらしい。
私は九州人の血を引いて、口舌の徒である。『朝まで生テレビ!』が朝になって、エンディングテーマが流れだすと、
「もうやめるのか。根性なしめ!」
と、テレビに向って文句をつけるような議論好きだった。ディスハラとでも言うべきか。
いずれにせよ、世の中はハラスメントだらけである。国際政治もパワハラ以外のなにものでもない。
テレビをみていると、視聴者に笑いを強制するような番組づくりが横行している。これをしもワラハラと言うべきか。
石川五右衛門ではないけれども、世にハラスメントの種はつきない。
こんな雑文を読めというのか、ヨメハラだぞ、という声がどこからかきこえるような気がする。
しばらく前に「マウントをとる」という表現がはやったことがあった。支配権をにぎる、という感じの言い方だったが、これはハラスメントの裏返しの表現ではないだろうか。
世にハラスメントの種はつきまじ、といった感じがする。
表に出た強者、弱者の感覚ではなく、もっと根深いところに差別の深淵がひそんでいるような気がしてならないのだが。 (2025・5・29)











