日本初ノーベル賞「湯川秀樹博士」 妻・スミさんが「悪妻」と呼ばれながらも支えた“引っ込み思案で繊細な天才”

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秀樹さんから“一生懸命やってくれ”と

 1949(昭和24)年11月3日、湯川秀樹氏のノーベル物理学賞受賞が決まった。日本人初のノーベル賞受賞者として、現在の認識では“偉人枠”であるものの、その素顔はいかなるものだったのか。かつて「京都の三悪妻」の1人に数えられた時期もあるスミ夫人の姿を通し、「週刊新潮」のバックナンバーから辿ってみよう。

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 1949年の日本は2つの快挙に沸いた。水泳の古橋廣之進が全米水上選手権で樹立した世界新記録、そして湯川秀樹氏のノーベル物理学賞受賞である。戦後の混乱期で疲弊していた日本にとって、まさに光をもたらす吉報。1989年、78歳になっていた秀樹氏の妻、スミ(澄子)さんは、「週刊新潮」に対して当時をこう振り返っている。

〈「10月でしたか、秀樹さんが大学(教授として教鞭をとっていた米コロンビア大学)から帰ってくると“なんだかノーベル賞がもらえるようだよ”と言うのです。彼のところに世界中の報道陣がやってきて、いろいろ取材されたというのです。正式な連絡が来たのはそれから間もなくのことでした」〉(「週刊新潮」1989年2月2日号)

 当時のスミさんは、1981年に死去した秀樹氏の意志を継ぎ、世界連邦の国際運動で世界を飛び回っていた。スミさんによると、秀樹氏がこの運動に乗り出したのは昭和23年。パートナーはおなじくノーベル賞を受賞したアルベルト・アインシュタイン博士だった。

〈「秀樹さんは亡くなる間際まで、人類の幸福を考えていたのです。で、私も、彼が亡くなったあと、海外・国内を問わず、あちこちの会議や講演に出かけています。それは昭和23年、世界連邦の構想ができた時、秀樹さんから“一生懸命やってくれ”と言われたことの続きなのです」〉(同)

「先生は隠遁したかもしれない」

 自らのビジョンを明確に持ち、実行する女性。秀樹氏にとって最大の転機とは、そんなスミさんとの結婚だったのではないかと語ったのは、哲学者の梅原猛氏である。

〈「自分の厭世観を克服するために、何か途方もなく大きなことを考えないと、バランスが取れないと研究を続けたのが中間子の理論だったと、湯川先生から聞いたことがあります。一方でスミさんは、無邪気で時に感情が表れやすい活発な方でした。あの奥さんでなければ、先生は隠遁したかもしれない。後のノーベル賞につながる論文も、まだ細かい部分を詰めたいという先生に、すぐに英語で発表してください、と勧めたのは奥さんです。天才でしたが引っ込み思案だった先生の才能を、外に表現する後押しでした」〉(「週刊新潮」2006年6月日1号「墓碑銘」)

 スミさんは明治43年に大阪で生まれた。父親の玄洋氏は、現在も運営されている湯川胃腸病院の初代院長で、夏目漱石の『行人』(1912年)では「毎日午前中に回診する院長」である。

 スミさんが3歳年上の秀樹氏と結婚したのは1932(昭和7)年、22歳の時。スミさんは結婚2日目、秀樹氏に学者の妻の心がけを仰ぎ、さらに“ノーベル賞は日本人でも貰えるか”と尋ねたという。

 婿養子となった秀樹氏は、スミさんの実家から援助を受けて研究に勤しんだ。スミさんも秀樹氏の研究を最優先した。そうした内助が実を結んだのは、戦争を挟んで結婚から17年後のことだった。

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