石田三成はまんまと関ヶ原へおびき出されたのか? 「家康の罠」説に歴史家が出した「納得の結論」

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「天下分け目の戦い」関ヶ原合戦においてよくある議論に、大垣城にこもっていた西軍の中心勢力が徳川家康の知略に引っかかり、自ら城から出て関ヶ原に移動、徳川家康が得意としていた野戦を選ばされたという説がある。

 もし大垣城に石田や島津、小西、宇喜多など本戦で戦った西軍の主力部隊が籠城したままであれば、関ケ原の戦いが起こらず、数日どころか半年以上も決着がつかなかったかもしれない。大坂城から毛利輝元を従えての豊臣秀頼の出陣という、東軍にとっては最悪の事態になっていたかもしれず、乾坤一擲、短期決戦に持ち込んだ「天下人」家康の決断力、さすがというべきか。

 ただ、当時の状況から見て、真実は別のところにあるのではないかという見方を、国際日本文化研究センター名誉教授の笠谷和比古氏は近刊の自著『論争 関ヶ原合戦』で展開している。ここでは、同書の記述を再編成して紹介する。

家康本隊、突然あらわる

「天下分け目の戦い」関ヶ原合戦の前日の9月14日早朝、徳川家康の本隊は岐阜を出発し、正午に赤坂に到着、ここで東軍方についた豊臣恩顧の武将の出迎えを受けた。家康は麾下の兵とともに岡山頂上の陣所に入り、石田方の大垣城に向けていっせいに金扇馬印と旌旗(せいき)20旒(りゅう)余りを掲げた。旌旗は葵章旗7旒と源氏の正統を誇示する白旗20旒とであった。

 ここにきて、大垣城内の西軍勢力は、家康率いる大軍の突然の到来を初めて知り、衝撃を受けた。城内将士は動揺し、あるいはこれは大軍の到来と見せかける戦略上の偽装工作ではないかとするものなど諸説が入り乱れて浮き足だった。

西側に押し出された豊臣系東軍

 その後、杭瀬(くいせ)川の緒戦は西軍の勝利に終わったが、家康の部隊の到来によって、興味深い事態が生じていた。いままで赤坂の地に陣地を構えてきた東軍方の武将たちであったが、家康の率いてきた3万の大軍の到来によって、赤坂から押し出される形で、垂井宿の周囲に広がる青野ヶ原に展開するという状態となっていた。

東軍別動隊の佐和山攻略計画

 このような布陣となったことから、家康の本隊は西軍主力の集結する大垣城に対峙するという形で展開することになるが、青野ヶ原に進出した東軍方の武将から別動隊が編成され、三成の居城である佐和山城の攻略に向かうのはほとんど不可避の状態となっていたかと思われる。

 そしてそれは大垣城に籠城する西軍の側からも当然にも察知されたであろう。そして三成である。自己の留守城がいまや東軍のターゲットになっているであろうことは、誰よりも深刻に認識せざるを得なかった。東軍による佐和山城攻略を何としてでも阻止しなければならない。そしてそこから、佐和山城において東軍を迎撃するという作戦が浮上してくるであろう。

三成の戦略「二重引き」

「吉川広家自筆書状案」には、大垣城の三成が陣替えの行動に出たのは、佐和山城への撤退のためであったことが記されている。

 広家は三成たちの陣替えをさして「二重引き」と評している。1度目は大垣城から出て関ヶ原の地へと引くこと、そして2度目は自己の居城、佐和山城まで撤退するということである。故に二重引き、と。だが実際には二重引きにはならず、1度目の関ヶ原で東軍との会戦におよぶこととなったのである。

秀忠隊を待つつもりだった家康

 東軍の佐和山城攻略作戦が関ヶ原合戦を誘発するに至ったというのが真相に近いと考える。家康とすれば、大垣城内の西軍側が佐和山城攻略作戦を察知して、これを阻止しようとしても、数で圧倒的に優位の東軍の軍勢に牽制されて動けまいとする計算があったろう。

 従って、家康側の作戦としては、別動隊でもって佐和山城を攻略し、併せて中山道の交通を遮断すること、そして東軍の残りの兵力で大垣城の西軍を撃破するという形になるであろう。そして家康にとって大垣城の攻略は、なるべく時間をかけて、秀忠隊の到着を待つという形が望ましかったであろう。

留守城と大谷隊の危機

 他方、西軍の側では、東軍の武将たちが赤坂から垂井周辺の青野ヶ原に進出してきたことから、三成にとって一番気掛かりであった留守城の佐和山が狙われていることを、まず以て危惧したことであろう。

 その行く手にある関ヶ原の西方、山中村のあたりには大谷吉継が布陣している。その向かいの松尾山には小早川秀秋が8千の大軍をもって盤踞(ばんきょ)しているが、秀秋は東軍に内通していることが疑われており、頼りにはならない。さすれば大谷一隊をもって、東軍の別動隊と対峙することになるが、兵数的に圧倒されてしまう。

闇夜に紛れた西軍主力の行軍

 三成としては、自己の佐和山城を守ることと、盟友大谷を無駄死にさせないためにも、大垣城を出て大谷隊と合流することが必須の課題となっていたはずである。そこで三成ら大垣城の西軍は14日の夜中から城を出て関ヶ原へと移動することになる。

 行程は、東軍が密集している中山道は避けて、また東軍側からは視認されないように、大垣城から南進して南宮山の背後に回り込み、それより牧田路を通って関ヶ原へと抜けるというものである。これはこの方面の地理に詳しい者がいない東軍側にとっては、まったくの死角であったといってよいであろう。

 14日の夜半、大垣城ではたいまつを赤々とともして城中に人がいるように偽装したうえで、粛々と同城から退去していった。その順番は第一石田隊、第二島津隊、第三小西隊、第四宇喜多隊の順であった。途中から雨がしきりと降り来たって行軍を苦しめたが、陣替えの行動を秘匿するには好都合となった。

 深更におよんで、西尾光教(にしおみつのり)の曾根砦より報告が家康のもとに届けられ、敵兵はすでに大垣城を出て野口より牧田路に向かっておる旨が伝えられた。先鋒を命ぜられている福島正則の方よりも同様の報告がなされ、あわせて進撃を要請してきた。家康はすでに床に就いていたが、ただちに全軍に出動を命じた。

得意の野戦へのおびき出し作戦?

 西軍の大垣城からの移動について、これを家康のおびき出し作戦として説明することがしばしばある。攻城よりも野戦を得手とする家康が、三成ら西軍を大垣城からおびき出すべく、佐和山城攻撃の計画をわざと流したのである、と。さらには、かの武田信玄との闘いである三方ヶ原合戦の故智にならう形でのおびき出し作戦に他ならなかったとする説明である。

 しかしそれは妥当とはいえない。おびき出し作戦であるならば、家康方の偵察要員が大垣城内を監視していなければならないであろうが、そのような手立てはなされていなかった。東軍側が西軍の大垣城脱出と牧田路方面への移動を把握するのは、はるかに遅れて深更に及んでからのことであったのである。

関ヶ原を決戦場に選んだのは三成

 つまり決戦場としての関ヶ原の地を選んだのは家康側ではなく三成側であるということになりそうである。 しかしながら、この問題は複雑な様相を帯びており、三成側があらかじめ選んでいたわけでもなく、事態の展開の結果として関ヶ原が決戦場となったというのが真相のようである。

 歴史の事象の説明に、黒幕の陰謀や英雄の深謀遠慮がしばしば語られるが、人々の事前の思惑をことごとく覆していく歴史のダイナミズムの前には、人間の深謀遠慮など物の数ではないように思われる。

※笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』より一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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