「小早川秀秋はすぐに西軍を裏切った」「問い鉄砲のエピソードは作り話」――関ヶ原の戦い最大の見せ場を否定する新説は本当なのか?

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 東西両軍が繰り広げる戦闘のパノラマを眺めながら、どちらにつくか迷う頼りない若年の大将――19歳の小早川秀秋が旗幟を鮮明にできない様子は、「天下分け目の戦い」関ヶ原合戦をドラマや映画で描くときに欠かせない大事なシーンである。

 小早川秀秋隊は、関ヶ原に布陣する西軍の中で2番目の兵力を誇っていたが、黒田長政を通じて東軍に内応する約束をしていた。しかし、開戦後もなかなか動こうとしない小早川秀秋にしびれを切らした家康は、小早川隊に鉄砲で弾を撃ち込み、早く西軍を側面から襲うようにとプレッシャーをかける。そして、ついに小早川隊は東軍に寝返り、西軍に襲い掛かる……これが有名な「問い鉄砲」のエピソードである。

 ところが最近の歴史学においては、当時の一次史料から「開戦と同時に小早川軍が裏切り、西軍は敗走した」という新説が出され、それが定説になりつつあるというのだ。その真偽について、関ヶ原戦研究の第一人者である国際日本文化研究センター名誉教授・笠谷和比古氏が、新刊『論争 関ヶ原合戦』で詳しく考察している。同書の記述を再編集して、この「初めから秀秋裏切り」説を検証してみよう。

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 小早川秀秋は、合戦前日、そこに布陣していた大垣城主・伊藤盛正を追い出すかたちで、標高293メートルの松尾山に布陣した。東西の尾根筋に細長い曲輪を構えた山城で、関ヶ原全体を西南方向から見下ろすことのできる絶好の場所に8千人という軍勢を率いて入ったのだ。さて、東軍に内応の約束をしていた秀秋の眼下で繰り広げられていたのは、寄り合い所帯な印象もあった西軍の意外な善戦だった……。以下、該当箇所を引用する。

「表裏をなしたか」と怒る福島正則

 家康麾下の旗本士として関ヶ原合戦に参加した戸田氏銕(のち近江膳所三万石の譜代大名)が残した「戸田左門覚書」は比較的信頼性の高い書物として知られるが、小早川秀秋の裏切り攻撃について以下のように記している。

 東軍先鋒の福島正則の部隊が戦端を開く時に鬨の声を挙げることとし、その鬨の声に呼応して小早川の部隊が下山攻撃に入るという手はずであった。

 しかるに福島隊が鬨の声を挙げたにもかかわらず、小早川隊は何ら反応しなかった。福島正則は、「秀秋は表裏をなしたか」と怒り、松尾山に対して攻撃を仕掛けようとする状態であったという。

 これに対して家臣が、「福島隊が開戦直前に東軍の中央部に陣替えしたことと、霧が深い故に、福島隊であるか否かの確認ができなかったのだろう」と正則をなだめて事なきを得た。そして霧が晴れ上がったのちに、小早川隊の下山攻撃があったと記されている。

「手はず通り進まないのは戦場の習い」と黒田長政

 小早川隊が逡巡して動かなかったことは、徳川系の史料だけでなく、小早川の裏切りの仲介をした黒田長政の黒田家の「黒田家譜」にも明記されている。小早川が動かないことにいら立った家康は、使番を黒田長政の陣に赴かせて、事情を詰問させた。ところがその使番が馬上から長政に叱責口調で述べたものだから、長政は怒り、「事が手はず通り進まないのは戦場の習い」と吐き捨てるように答えたということである。

「黒田家譜」に記されている意味

 松尾山では、長政から秀秋の下に裏切り目付役として送り込まれていた大久保猪之助が、やはり小早川隊の逡巡にいら立って、その前線部将の平岡頼勝に対して総攻撃を促したところ、平岡は戦いの趨勢を見極めているところと述べて、大久保の要求を拒絶したなどのやり取りが克明に記されている。

「黒田家譜」は確かに後代に編纂されたものであり、そこに潤色のあることも事実である。しかしこれほど大きく関連した全体が、すべて捏造というのはあり得ないことであろう。特にここには、小早川の裏切り仲介をした長政にとって、その思惑通りには事が運んでいなかったという、長政の不手際、黒田家の失点ともとれる記述が続いているのであるから。ありもしない落ち度や不手際を、わざわざ捏造して自家の歴史に加えるなどということはないであろう。

「問鉄砲」は「誤射」だったのか?

 そして小早川隊が出撃を逡巡していた時のこととして、次のような興味深い記述がある。

 すなわち小早川軍が松尾山に布陣して東西両軍の戦いを観望していたときのこと、麓の方で自軍に向けた鉄砲の射撃音のするのが聞こえた。そこで小早川の使番は、秀秋の命を受け下山して事情を調べようとした。ところがその時、徳川方の武士が下から上がってきて、これは誤射であり御懸念無用にと述べ、調査の必要はないと強く申し立てた(正確には、玉薬、すなわち鉄砲の火薬がしめっていたので撃ち捨ての射撃であったという説明であった由である)。

 しかしその使番は、調査は主君からの命令であるとして、それに構わず現場の状況をあれこれ調べたところ、単なる誤射ではなくて、かなり複雑な事情のある行為であったようだ、と記されている。

別系統の二次史料をどう扱うか?

 これは「備前老人物語」に収載されたエピソードである。同書の著者は不明ながら岡山方面で晩年を過ごした人物が見聞したところを記したもので、もちろん記事そのものは後代の伝聞に基づくものであるから第二次史料ではあるけれども、その内容は比較的信頼のおけるものとされている。第二次史料だからといって一律に否定、排除するというのは妥当とはいえない。

 同書の筆者は、この話を小早川の家臣から聞かされたと記している。伝聞史料ではあるけれども、この話には強い信憑性を感じる。殊に、ここにはことさらに「問い鉄砲」などという言及が無いという点からも、その印象を深くする。

 この記事は、この鉄砲射撃が秀秋に下山攻撃を誘導する目的でなされたというようなことは何ら言及していない。ただ不思議なことがあったとのみ書きとどめられている内容である。この「備前老人物語」の記事は、幕府系の問い鉄砲に関する記述とは別系統のものと判断しうる。

 第二次史料であっても、出所、来歴を異にする複数の第二次史料が、同一の事象を語っている場合には、その事象の史実性は高いと言わなくてはならない。

「一斉射撃」の実態

 そして幕府系の松尾山に向けての一斉射撃という記述と、誤射を装った訳ありの射撃があったとする「備前老人物語」の記述とを比較するならば、後者の側が当時の状況からしてふさわしいものとの心証を得る。そのような誤射の体裁を装うという抑制された形での警告射撃であったのだけれど、後世、家康側からの警告射撃に促されて秀秋が進撃したという話が独り歩きすることによって、家康の鉄砲部隊が松尾山山頂めがけて一斉発砲(いわゆる、つるべ撃ち)したという華々しい話へと肥大化していったものであろう。

 またそのような、射撃が誤射の体裁を装って、さりげなく行われていたということならば、合戦直後のどの記録類にも問い鉄砲の話が記されていなかったという事情も了解される。家康側からの誘導威嚇の射撃は、小早川隊だけが認識しうるものであったということである。

銃声は聞こえたかという問い

 問い鉄砲の実在については、これ以上の贅言(ぜいげん)は無用と思われるが、別の方面からその非在の主張がなされることがある。すなわち、松尾山の麓で鉄砲射撃をしても山頂の秀秋らに聞こえるはずがないという主張である。またその変形として戦場各地で銃声が轟いているときに、松尾山の麓から山頂に向けて一斉射撃をしても聞こえるはずがないとするものである。

 よく実験的検証と称して、平日の静寂な松尾山の麓で、運動会用のピストルを鳴らして、山頂でその発射音が聞こえるか否かを試みることが行われる。そしてその結果、全然聞こえない、やっぱり問い鉄砲の話は作り話だったと得々と語っているのを目にするが、まったく的外れの仕儀と言わなくてはならない。

分散配置された8千名

 この種の認識の前提となっているのはゲームの世界の風景と言ってよいであろう。小早川秀秋隊というのは松尾山山頂の松尾新城の箇所に兵力8千と置かれていて、この兵力が東西両軍に対してどのように影響するかを評価するものであるが、このような見方がすでに誤っている。

 小早川隊8千名というのは、山頂に固まっているのではなく、「備」の仕組みにしたがって分散配置されている。そのうち先備は敵との最前線において戦うために、あらかじめ総大将のいる旗本備からかなり離れた位置に展開しているのが常である。合戦当日では松尾山の中腹あたりに布陣していたことであろう。そしてその先備の内部を見るならば、その最前列は足軽鉄砲隊であり物頭(鉄砲隊長)がそれを指揮している。

山頂まで届く必要のない鉄砲の音

 すなわち、先備の最前列の位置は、松尾山の中腹と麓との中間あたりになるであろう。鉄砲の音は山頂まで届く必要はない。麓で小早川隊に向けて鉄砲発射がなされたとき、それを直ちに小早川側が知覚することは何の疑いもないことなのである。実際、松尾山の山麓付近で鉄砲を発射しても、山上までその情報がまちがいなく届いていること。そして小早川の軍勢は、その家康側から鉄砲射撃されるまでの間、裏切り出撃を行っていなかったことなどが「備前老人物語」の記述から推知されるのである。

『論争 関ヶ原合戦』より一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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