「関ヶ原合戦で豊臣秀頼は一大名に転落した」という定説は大間違い――近世史の第一人者が挙げる「決定的証拠」

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 豊臣秀吉の遺児・秀頼は、関ヶ原合戦の敗北によって、摂津・河内・和泉の3か国・65万石の一大名に転落した──長らく定説とされてきた歴史像です。

 しかし、当時の有力大名だった伊達政宗や黒田如水の書状などの史料に目を向けると、実は全く異なる景色が見えてきます。合戦後も秀頼は「天下を統べるべき存在」として広く認識され、領地安堵の権限さえも担っていたのです。
 
 ではなぜ、その存在感が後世の歴史叙述において矮小化されたのでしょうか。国際日本文化研究センター名誉教授で近世史の第一人者である笠谷和比古氏は、新刊『論争 大坂の陣』(新潮選書)で、秀頼と豊臣家の地位を再検討し、関ヶ原後の政治秩序の真実に迫ります。...

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