淀殿と三奉行は最初、家康支持だった! 石田三成の「西軍」はいつから豊臣政権公認の正規軍となったのか?

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「天下分け目の戦い」関ヶ原合戦を語る上で重要なのは、打倒家康の「西軍」はいつ結成されたかという点である。

 一般的には、石田三成が毛利輝元らの武将を糾合し、大坂城にいる豊臣秀頼を担ぎあげたといわれている。しかし、2022年12月14日放映「NHK 歴史探偵 情報戦 関ヶ原」にも登場した国際日本文化研究センター名誉教授の笠谷和比古氏は「決起は2段階だった」という新説を、近刊の『論争 関ヶ原合戦』で展開している。ここでは、同書の記述を再編成して紹介する。

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 まずは慶長5(1600)年旧暦7月10日ごろに時間を戻すと、その時、越前敦賀城主・大谷刑部(吉継)が、家康率いる上杉征伐軍に加わるため、中山道を東に向かっていた。美濃の国(今の岐阜県)に入った大谷吉継は、知古の石田三成から居城・佐和山城で会わないかと誘われる。それが関ヶ原合戦のそもそも発端となったのだ……。

三成の告白

 三成の挙兵の決断は大谷吉継との面談の時ということになる。もちろん三成の心中においては決意がふつふつと沸き立っていたであろうが、それを他者に向けて打ち明けることも、具体的な行動として立ち上げることもできないままに経過していたということであろう。

 そのような時に、吉継が中山道垂井宿に来たったという情報を得た。そこで吉継を佐和山城に呼び寄せ、初めて自己の決意を告げて同心協力を求めたというのが、三成の挙兵に至った経緯ではなかったかと考える。

謀反の風説

 大谷吉継は、最初、三成の挙兵計画を無謀として退けていたが、三成から大事の計画を打ち明けられながらこれを見捨てるは不義であり、いまはただ三成と生死を共にするのみとして、7月11日、その兵を率いて佐和山城に入った。

 しかしながら、大谷吉継の軍勢が垂井の宿に逗留を続けて、いっこうに動く気配の見られないこと、そして吉継が三成の佐和山城に赴いて密議を重ねているらしいという状況からして、石田三成・大谷吉継の両名による反家康の謀反が計画されているとする風聞が、またたく間に広がっていった。

「義演准后日記」7月13日条にも大坂の雑説として「諸人、物を所々へ運渡候体、言語道断の儀」と記されているところである。そしてこの両名の挙兵の動きは、大坂の豊臣奉行衆の一人増田長盛によって会津遠征の途にある家康のもとに報知されている。

奉行・増田長盛の書状

 美濃国垂井の宿で大谷吉継が2日間、病気と称して滞留したありさまと、これに関連して三成が出陣するとの雑説が流布している由の内容を記した増田長盛の書状が、家康側近である永井直勝のもとに送られているわけである。

 のちに家康弾劾の檄文を諸方に発することとなる増田長盛が、三成たちの挙動不審の状を家康に告げるのは奇妙にも見えるので、これは家康方をかく乱する目的で発した偽装ではないかと解する向きもあるようであるが、これはそのような無理読みをする必要はない。

 この時点では、三成の挙兵計画はいまだ実行には移されてはおらず、大坂城にある豊臣奉行衆に対して挙兵への同調を促す工作も、いまだ行われていなかったのである。

淀殿も家康へ沈静化を要請

 上の点を裏付けることになるが、増田長盛単独の書状だけではなく、石田三成と大谷吉継が謀反を企てているので、家康に事態を沈静化してもらうために急ぎ帰還ありたい旨の要請の書状が、淀殿と豊臣三奉行からも家康のもとに届けられていたことが知られる。このことは、家康方武将の榊原康政から秋田の秋田実季(さねすえ)に宛てた7月27日付の書状の内容から、間接的に確認することができる。

 上方において石田三成と大谷吉継とが謀反を企てているので、大坂から淀殿および三人の奉行、前田利長などが、家康に早急に上方に戻ってきてほしい旨を書状をもって申し来たったので、上の謀反を企てている二人を討伐するために、今回、関東方面まで下向してきた豊臣系武将たちを引き連れて、家康は上方へ帰還された、との文面である。
 
 ここでは増田長盛ら大坂城の豊臣奉行衆は、この後に「内府ちがひの条々」を発して(7月17日)家康追討の前面に登場してくるのとは大きく異なって、むしろ三成らの挙兵行動に困惑しており、その鎮定方を家康に依頼するという態度を示している。

 以上のように、この7月12日の時点では大坂の豊臣奉行衆は三成の挙兵の企てには加担しておらず、むしろその鎮定のために家康に働きかけるという立場であったということである。これらの点を踏まえるならば、上方方面における反家康挙兵という事態は、明確に区別された2段階に分かれるということになるであろう。

「第1段階」は二人だけの決起

 すなわち第1段階は、石田三成と大谷吉継の両名だけによる決起であり、淀殿にも豊臣奉行衆にも、そして安国寺恵瓊にすら何らの事前の相談も事情説明も行われないままに、反家康闘争を始めた段階。

 この段階では大坂城の豊臣奉行衆はこの企てには加担しておらず、この突発した事態に狼狽し、会津遠征の途次の家康に対して、事態沈静化のため、急ぎ上洛して上方の仕置を執り行ってくれるように要請していたわけである。

安国寺恵瓊による説得工作

 これに対して反家康挙兵の第2段階は、石田三成と大谷吉継の側から大坂城の前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行に対して説得工作が試みられ、かれら豊臣奉行衆そして淀殿が一致して家康討伐の計画に同調した段階である。そしてこの説得工作は、新たに参加した安国寺恵瓊によってなされることとなる。

 これによって石田三成の反家康闘争は彼の個人的な挑戦から、豊臣公儀の名をもってする公戦としての正当性(レジチマシー)を獲得するのである。すなわち7月17日付をもって家康の非違13カ条を書き連ねた「内府ちがひの条々」が、豊臣三奉行連名の添え状をもって全国の大名に対して発給されたのはその端的な表現であった。

 これによって三成側の軍勢は単なる騒乱勢力ではなくなり、豊臣公儀の正規軍として承認され、反対に家康の側が討伐されるべき反乱軍として位置付けられることとなる。

毛利輝元の上坂

 そしてまた時期的にはこの頃、中国の雄毛利輝元が大軍を率いて大坂に到着し、そのまま家康追討の戦いの総大将に推戴されることによって、三成としては自己の思い描いていた戦略プランが、ほぼ完全な姿を見せるに到ったのである。

 毛利輝元は、現下の不穏な情勢への対応のため急ぎ上坂を求める7月12日付の三奉行連署状の要請に応える形で、7月15日に大軍を率いて広島を海路出陣し、19日には大坂城に入った。

「内府ちがいの条々」という宣戦布告

 それに先立つ同17日には、大坂にいた毛利秀元が家康の居所であった大坂城西丸に入って、同所を占拠した。(家康が置いていた留守居の佐野綱正は無抵抗で同所を明け渡した)ここに三成方の面々は相議して輝元を全軍の総大将となし、輝元は大坂城西丸を拠点とした。輝元はその子の秀就(6歳)を児玉元兼・国司元蔵らとともに本丸の秀頼の側に侍せた。

 輝元の大坂城入りに先立つ同17日、三成の率いる大坂方勢力は家康の非違13カ条を挙示した「内府ちがひの条々」を全国諸大名に向けて発し、家康に対する宣戦布告となした。

 以上からわかる通り、たった1週間前には、「家康討伐」の構想は石田三成の胸中にしかなかった。そして、挙兵の段階でも石田三成と大谷吉継の両名だけによる決起であり、淀殿や増田・長束・前田ら三奉行は、むしろ事態の沈静化を江戸の家康に要請していた。しかし、三成は安国寺恵瓊を通じて淀殿や三奉行をも抱き込み、大坂には畿内、西国方面から諸将が結集。石田三成のプランはあっという間に現実となり、「西軍」は10万を超える豊臣公儀軍へと膨れ上がったのだった。

※笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』より一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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