「死んだら世間がベタぼめなのに驚いた」 死去から58年「吉田茂」、初孫「麻生太郎」が27歳当時に明かした“偽らざる気持ち”

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外国人客に高価な土産を

 子供の好きにさせていた吉田氏だが、経済的な余裕はさほどなかった。健一氏の記憶では、外相当時でも5000円の預金がなかったという。戦後派の政治家のように、格別の財産があったわけでもなかった。

「週刊新潮」に対し、大磯(吉田邸があった神奈川県大磯町)に出入りした延べ時間なら「どのお子さんにも負けない」と自負したのは、元政治記者の鈴木憲男氏だ。鈴木氏いわく、吉田氏の財産は「大磯の屋敷(邸内が8000坪とバラ園が3000坪)と、上物がのっている東京広尾の2000坪の土地だけ」

 ただし、その生活は質素ではなかった。下着は英国製にこだわり、外国からの客が大磯を訪れるようになった昭和35年ごろからは、食事をともにして土産も贈っていた。

〈このお土産が、三越から取り寄せる特製の焼物と佐賀錦のハンドバッグで、しめて25万円から35万円。自民党主流筋の計算では、大磯邸の1カ月の家計は「100万円を越える」というが、ともかく、戦後の元老の体面を保つためにも、大へんな出費をしなければならなかった〉

 この台所を支えた人々には、和子さんと結婚した麻生太賀吉氏以外にも、池田勇人氏や佐藤栄作氏といった吉田学校の優等生たちがいたという。

初孫・麻生太郎氏の率直な発言

 そして記事は〈難題はむしろこれから〉と、吉田氏亡き後の台所事情に触れている。当時で時価5億円は下らないとされた吉田邸の相続税問題だ。吉田氏の引退後も政財界の面々が訪問した吉田邸は、「大磯詣」の言葉を生んだ場所でもあった。

〈となると、大磯の屋敷を他人に手放すしかないが、すでに通夜の席では自民党の面々から、「大磯邸は吉田記念館にしたらどうだろう」(中略)という声があがっている〉

 結局は吉田家が昭和44年まで所有。西武不動産への売却後は「大磯プリンスホテル別館」となったが、後に継続困難となり、大磯町による保存と活用の検討が始まった。だが、2009(平成21)年、原因不明の火災で家屋が全焼してしまう。

 再建(復元)プロジェクトに切り替えた大磯町は、残った日本庭園などを整備し、2013(平成25)年に県立公園の旧吉田茂邸地区として公開を始めた。その4年後には家屋を一部復元し、現在は人気の観光地である。

 地元の大磯町が抱く長年の愛情は別として、吉田人気の高まりはもっぱら死去後の話だったと先に触れた。そこで「週刊新潮」は、遺族が当時明かした“偽らざる気持ち”で記事の最後を締めくくっている。その遺族とは、取材当時27歳だった和子さんの長男、吉田氏の初孫である麻生太郎氏。

〈「じいさんが死んだら、世間がベタぼめなのには驚きました。現役時代は、国民の半分ぐらいがその死を願っていたのにね。本人が一番テレているんじゃないかな」〉

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 第1回【死去から58年「吉田茂」が徹底した「親は親、子は子」 深夜帰宅を黙認された娘、外務省高官に父の素性を1年も黙っていた息子】では、〈ほとんど世間に知られていなかった〉長女と次男、子供たちにはもちろん夫にも厳しかったという雪子夫人のエピソードが語られている。

デイリー新潮編集部

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