吉田茂が“大恩人”? なぜ日本共産党は非合法化されなかったか

政治2019年2月20日掲載

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日本は稀有な国

 国会では共産党委員長と総理が論戦、街中には共産党候補者のポスターが溢れる。そんな日本の状況は、じつは世界的にみると珍しい。フランスを除いて、いまや先進各国では共産党は国会議席を持っておらず、それどころか活動を禁じられている国すらあることを前記事「日本は共産党にとって天国だった 意外と知られていない世界の共産党事情」でお伝えした。
 もはや“壊滅状態”となっている理由は、共産主義そのものへの忌避感に加えて、法律的な制約があるからという面もある。
 例えば第二次大戦後アメリカは反共立法として、スミス法(1940年)、タフト・ハーレー法(1947年)、マッカラン法(1950年)、共産党取締法(1954年)など、いくつもの法律を定めている。また冷戦初期の「赤狩り」の厳しさは、今でもよく知られているだろう。

 ここで一つの疑問が浮かぶ。アメリカに占領されて強い影響下にあった終戦後の日本で、共産党が合法のままだったのはなぜなのだろうか。
 実際には非合法化への動きもあったが、それに踏み切らなかったのは当時の首相・吉田茂だったという。福冨健一氏の新刊『日本共産党の正体』から、この部分を紹介しよう(以下の引用部分は同書より)

「占領の初期、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は必ずしも共産党に対して厳しい姿勢ではありませんでした。また当時の日本は、日本の弱体化を目指す占領政策と食糧難、インフレなどが重なり、社会不安が高まってもいました。多くの国民は無謀な戦争を反省し、共産主義に対して民主主義と同義語のように期待したのです。
 1949年1月、衆議院総選挙が実施され、吉田茂の民主自由党が議席を112増やして単独過半数の264議席を獲得します。日本共産党は35議席を獲得、その勢いに共産主義革命も囁かれました。

 この頃までに共産勢力への方針を転換していたGHQのダグラス・マッカーサーは、団体等規制令を公布しました。翌1950年の新憲法発効3周年記念日、マッカーサーは、共産党は『法の保護に値するか』疑問であるとの声明を出し、再び共産党非合法化を示唆します。
 吉田は、共産党員による米軍将兵に対する暴行事件をきっかけに『共産党の非合法化を検討せざるを得ない』と、非合法化法案を検討することを決心します。続いてマッカーサーもレッドパージを実施し、日本共産党中央委員24名全員を公職追放、アカハタ編集委員など17名を追放しました」

「煮え切らなかった」指導者

 これを受けて、日本政府は共産党非合法化法の論議を始めるが、翌年、マッカーサー自身が「日本での共産党非合法化案を承認しない」ことを決める。自ら非合法化を促しながら、なぜ方針転換に至ったのか。

「ホイットニー少将の『マッカーサー伝』によると、『元帥は一方で共産党に警告するとともに、他方では日本政府が自発的に行動すべきことを強調した』、しかし『日本の指導者たちは結局煮え切らなかった』とあります。つまりマッカーサーは共産党非合法化法案を作るように示唆していますが、作るかどうかは日本政府が自発的に決めるべきだと判断したのです。(中略)
 1951年3月、国会で法務総裁が『共産党非合法化は政府として研究中であり、直ちに実現したいという考えを持つに至っていません』と答弁しました。これで非合法化法案は消え去ります」

 要するにマッカーサーの本音は「非合法化」だったが、日本政府は忖度しなかったことになる。吉田茂はなぜ非合法化を通さなかったのか。著書『回想十年』に記述が残されていた。

「マッカーサーの声明は、……明らさまに(共産党)非合法化の示唆である。……私の心中にもそうした考えが動かないでもなかった。しかし、結局のところ、国民の良識の処理にまつが健全なやり方であるという考え方から、実行せずに終った(中略)
 後になって考えるに、やはり実行して置けばよかったような気もする」

 こうして日本は共産主義、共産党に対して極めて寛容な国になった。福冨氏はこう語る。

「この『失敗の本質』は、共産主義思想の危険性を理解できなったことにあります。(中略)
 このことが、共産主義に対する日本と欧米の違いの源流になってしまったのです」

 共産党の国会議員は現在26人、地方議員は約2800人にものぼる。過去の流れを踏まえれば、彼らは吉田茂に足を向けて寝ることはできない。
 すると度々、その発言に共産党幹部が噛みついている麻生太郎財務大臣は、皮肉にも大恩人の孫ということになるのである。

デイリー新潮編集部