「死んだら世間がベタぼめなのに驚いた」 死去から58年「吉田茂」、初孫「麻生太郎」が27歳当時に明かした“偽らざる気持ち”

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第1回【死去から58年「吉田茂」が徹底した「親は親、子は子」 深夜帰宅を黙認された娘、外務省高官に父の素性を1年も黙っていた息子】を読む。

「父・吉田茂」の死を境に

 吉田茂氏が死去したのは1967(昭和42)年10月20日のこと。戦後日本の基礎を築いた人物として、詳細な説明が野暮に思えるほどの有名政治家である。それだけに、生前はその一挙手一投足が注視され、さまざまな批判にさらされることもあった。

 吉田氏への評価は死去を契機として高まった。世間の注目が残された4人の子供たちに移った際、「親は親、子は子」に徹したという吉田氏の接し方も評価の対象となった。誰もが知る父親の元で、子供たちはいったいどのように育ったのか。吉田家の子育て流儀、そして初孫が語った“祖父の死”を「週刊新潮」の過去記事から伝える。

(以下、引用部分はすべて「週刊新潮」1967年11月4日号「吉田四姉弟の人生態度 名声と注視の中での生き方」からの抜粋。一部の表記は現在に即したものに修正しています)

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自分の子供に対する尊敬がある

〈吉田さんの一種、放任主義とも呼ぶべきこの教育法は、実は、わが子に対する絶対の信頼感に支えられていたのかもしれない〉

 それを象徴するのが、長男の健一氏(1977年死去)に関するエピソードだ。健一氏は英文学者、評論家、翻訳家などとして活躍し、吉田氏の密葬と国葬で喪主を務めたが、戦後の一時期、文壇では「勘当されたらしい」という噂が広まった。

〈事実、当時の健一氏はハタで見ても、勘当された息子であるかのように見えた。住むところは間借りの部屋。着ているものも、おしゃれな父親とは似ても似つかぬヨレヨレのコート。(中略)だが、実のところはお互い同士、虚々実々の“戦い”が、あったようだ〉

 諸説ある“戦い”の原因はさておき、「週刊新潮」は健一氏の師匠にあたる評論家の河上徹太郎氏(1980年死去)に話を聞いていた。河上氏いわく、英国留学から戻った若き日の健一氏は「文学の本質的なものは勉強してきたわけだけれども、甘ったれた文学青年的なところも身につけてきた」。いわば「精神的な蕩児」だったと称した。

〈「(前略)吉田さんは、こういうのを軽べつしていたに違いない。だが吉田さんは、べつになにもいわない。その代わり、どんなに健一君が貧乏しても、靴一足も買ってやらなかった。買ってやれという人もいたんですがね。ところが、買ってやらなかったから、健一君は自分で買えるようになったのです」〉

 ただし「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」ではないという。

〈「吉田さんのは違うんだな。つまり、自分の子供に対する尊敬があるんです。自分の子供を、紳士として認め、かつそう扱っているわけで、健一君もその信頼にこたえたというわけですよ」〉

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