「ガンダーラ」「モンキー・マジック」誕生秘話──ミッキー吉野が語るゴダイゴ結成50年
第1回【“日本ロックの原点”を見た少年──ミッキー吉野が語る原体験とゴールデン・カップス時代】のつづき
現在、ゴダイゴとして「結成50周年ライブ」ツアーを行うミッキー吉野(73)が、自身の音楽人生を振り返る。1970年に「ザ・ゴールデン・カップス」を脱退後、1971年には、後に「ゴダイゴ」のベーシストとなるスティーブ・フォックスとバンド「サンライズ」を結成。さらに同年9月に米国のバークリー音楽院に留学した。卒業後、1974年に帰国。バンド活動の傍ら、音楽プロデューサーのジョニー野村の紹介で、あるボーカリストに会う。それがタケカワユキヒデ。後のゴダイゴのボーカルだった。
(全2回の第2回)
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【写真】ザ・ゴールデン・カップス時代ほか 貴重カットでミッキー吉野の音楽人生を振り返る
世界を目指す英語詞で
タケカワとの邂逅は、当初タケカワのアルバムとして制作されていた、後のゴダイゴのファーストアルバム「新創世紀」のレコーディング時。タケカワは1975年、シングル「走り去るロマン」でデビュー。直後にその曲を含む同名アルバムを、さらに年内にシングル2枚を出したタケカワに対し、ミッキーは「いい曲を書くのに、売れないなあ」という思いを抱いていた。
「米国に行って分かったのは、やっぱり『バンドが楽しい』っていうこと。周りには『なんで音大(バークリー音楽院)まで出て、またバンドやってんだ』なんて言われたけれどね。それとは別に、カップスの頃は英語詞のシングルも出したことがあったのに、1970年代は日本語でやれ、というムードが強くて。でも僕は世界を目指そうと思っていたし、ロックには英語のイントネーションが合うから、英語詞の曲をやりたかった。そしてタケカワのアルバムも全曲英語詞だった。壁を壊すにはバンドのほうが力が強いから一緒になって戦おう、とタケカワと組んだんだよね」
タケカワにはアメリカンポップスやポップロックの要素があったと振り返る。
「作曲能力には驚いたね。カップスのエディ藩もそうだったけど、ソウルミュージックなどのブラック系ではなくて、ホワイトなソウルやR&B(リズム&ブルース)の感覚だったんですよ。そういえば米国では当時まだ、黒人と白人のクラブが分かれていたほどの差別があった。僕はイエローだから差別ではなく、単に区別されていたけど、どちらとも交流し、仕事もできた。タケカワもそういう作曲ができると思ったね」
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