“日本ロックの原点”を見た少年──ミッキー吉野が語る原体験とゴールデン・カップス時代

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16歳でザ・ゴールデン・カップス入り プロの道へ

 1968年、シングル「長い髪の少女」がヒットした「ザ・ゴールデン・カップス」に加入した。当時まだ16歳。リーダーでボーカルのデイヴ平尾とは7歳も離れていた。プロのミュージシャンとしてのプレイもさることながら、バンドの人間観察を楽しんでいたという。

「あの年頃の1歳上は、すごく年上に感じる。当時、カップスは東横線で渋谷へ行っていたんだけど、平尾は電車に乗るときにビタミン入りの炭酸栄養ドリンクとスポーツ新聞を買って乗るわけ。僕らの年だとまだそんな習慣もないから『この人はこういう人なんだ』と。ルイズルイス加部(ベース、ギター)は桜木町駅から乗り込むと寝ちゃって、あの頃の東横線はまだほかにつながってなかったから、渋谷で折り返してそのまま桜木町に戻って、何にも考えずにそのまま帰っちゃうような人だったし(笑)。でもこの時の人間観察は、後にゴダイゴを結成してバンドのリーダーになると大いに役立ったなあ」

 当時はジャズ喫茶を中心に活動していたが、カップスのみの出演時は昼に4回、夜に4回も演奏していた。

「でも昼の最初の1、2回はフルメンバーがそろわないんですよ(苦笑)。3人や4人でやって……。今思うとすごいバンドだったね。それでも多くの人が聴きに来てくれた。今思えば、来てくれた人は踊っていても怒られず、自分を解放できていたんじゃないかな。当時の横浜の特徴として、基本的に客が踊れないバンドはクラブなどをクビになっていた。今でいうグルーヴやビートがないと、バンドとしての仕事にならなかったんだよ。それで鍛えられていたんだね」

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