“日本ロックの原点”を見た少年──ミッキー吉野が語る原体験とゴールデン・カップス時代

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 古くはグループサウンズ(GS)の「ザ・ゴールデン・カップス」、そして1970年代後半からは「ゴダイゴ」で活動してきたキーボーディストでソングライターのミッキー吉野(73)。特にゴダイゴはヒット曲がスタンダードとなり、今なお根強い人気を誇るが、その伝説のバンドの歴史を紡いできたミッキーに、自身の音楽観を尋ねた。

(全2回の第1回)

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指揮者になりたかった幼少時

 3、4歳の頃からピアノを習い始め、幼稚園児の頃から映画音楽に憧れていたという。

「ピアノは芸大の先生に教わっていたのですが、厳しくて、できないと指をひっぱたかれていた。今だとダメなんだろうけど(苦笑)。明治生まれの父が合唱団などで歌うのが好きで、伴奏をさせたくてピアノを僕に習わせたんじゃないかな。映画は西部劇『大いなる西部』や『愛情物語』が好きだった。西部劇のスケールの大きなシンフォニックなイントロや、愛情物語のピアノなんかに惹かれてね。親に聞いた話だけど、小さい頃は『指揮者になりたい』なんて話していたみたい。小さいながらに聴いているうちにノッていたんだろうね(笑)。小学校高学年頃からは、エルヴィス・プレスリーの映画を見るようになって、ピアノの連打など、ロックンロール的なものにインパクトを覚えた。それが中学になるとビートルズにつながっていったね」

最初のギャラは14歳で

 米国のミュージシャンで俳優のリッキー・ネルソンの10インチ盤(25センチ盤)のLPを叔父が持っており、それも好んで聴いていた。日本でもジャズ系のミュージシャンがロックンロールの萌芽ともいえる音楽を奏で始めると、米軍キャンプなどへ演奏に訪れるように。最初のギャラをもらったのは14歳の時だという。

「横浜で、4つか5つのアマチュアバンドにいました。まだインターネットなんてないころだから、『あそこに上手い奴いるよ』なんていう噂だけで見に来た人に誘われてね。当時はせいぜいピアノかアコーディオンで、キーボードプレーヤーというのもいなかったしね」

 中学の同級生にも「プロのミュージシャンになりたい」と話す友人がいた。が、「音楽で飯なんて食っていけないよ」と冷静に答えていたという。

「そう言ってた本人だけが音楽を続けているからね(苦笑)。今思えば、いつも自分にはアマチュア精神みたいなものがあった。常に『こういうのをやりたい、人のやってないことを探したい』と追求するようなアマチュア的な部分があったからここまで続いてきたんだろうね。その追求心が嫌になることもあるけど(笑)。プロだと、仕事的になっちゃう部分も出てくるからね」

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