伝説の「10・9」から30年…新日本 vs UWFインター団体対抗戦を当事者の証言で振り返る
ニュースなどで、大きな物量を紹介する単位としてよくたとえられるのが「東京ドーム何個分(何杯分)」だが、その東京ドームでトップクラスの動員を誇ったのがプロレスである。1998年4月4日の「アントニオ猪木引退試合」は7万人。それに次ぐのが95年10月9日「新日本プロレス vs UWFインターナショナル」の団体対抗戦で6万7000人(いずれも主催者発表)だった。しかも、「チケットの実売数では、95年10月9日の方が上と聞いたよ」という武藤敬司の発言もある。
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「デイリー新潮」のプロレス・コラムでおなじみ瑞佐富郎氏が、新著『10.9 プロレスのいちばん熱い日 新日本プロレスvsUWFインターナショナル全面戦争 30年目の真実』(スタンダーズ)を上梓した。タイトル通り、伝説的な動員記録となった団体対抗戦に挑んだ選手や団体関係者らに時をかけて取材を行い、プロレスと総合格闘技の歴史に残る「伝説の興行」をよみがえらせた力作だ。
同書の副題に『新日本プロレスvsUWFインターナショナル全面戦争 30年目の真実』とあるように、あの試合から今年で30年となる。メインとなった「武藤敬司vs高田延彦」の一戦は、今も語り継がれる好試合だが、本書の特色は対抗戦をあくまで「第2部」と捉え、そこに至るまでの両団体の因縁、確執を描く「第1部」に紙幅を多く割いていること。数々の名言も併せて紹介されているが、新日本プロレスのハロルド・ジョージ・メイ元社長の、
「プロレスにおいては試合自体は1割。そこに向かうまでの要素が9割」
という言葉に十分、うなずける内容になっている。新日本プロレスとUWFインターナショナル、団体の名誉をかけてメインを戦った武藤と高田の心中はいかなるものだったのか……同書から引く。
「お前は、センスがないから辞めろ」(長州力)
〈「長州さんとの2人きりでの会話? 今まで合計で5分くらいかな」
髙田は言う。2012年10月5日、まさにその長州とのトークショーでのことである。若手時代、同じく新日本プロレス道場にいた長州に言われた。
「お前は、センスがないから辞めろ」
「!?」
「山崎のほうがまだ(センスが)ある」
計5分の会話の大半がこれだったそうだ。
一方で、アントニオ猪木には可愛がられた。付け人を務めていた1984年には、身延山(山梨)に連れて行って貰えた。同山は、日本三大霊山のひとつで、猪木は大勝負を迎える際、よくこちらに登る。
山の上にある神社で、ともにお参りをした。すると、同行していた後援者が囁く。
「君、今度、大事な試合があるでしょう?」
確かに1984年7月20日、自身初のタイトル戦となる、札幌中島体育センターでのWWFジュニアヘビー級選手権(王者ダイナマイト・キッド)が決まっていた。新日本プロレスは、前年8月に初代タイガーマスクが引退し、日本サイドのジュニア戦士の充実も急務だった。
「猪木さんはそれで、『髙田も連れて行こう』となったんですよ」
「!!」
ところがこの一戦は、実現しなかった。髙田は直後に第一次UWFに移籍してしまうのである。とはいえ、1986年、新日本に出戻っても、猪木は髙田が可愛かったようだ。前田日明が長州力の顔面を襲撃し、謹慎処分になった後(*最終的に解雇)、髙田は、ある異変を感じたという。
「猪木さんとのタッグが、実現するようになって行ったんです」(髙田)
6人タッグマッチに臨むトリオ編成ではあったが、4試合実現している。中には武藤を入れてのトリオもあったが、取りも直さず、メイン級の扱いだった。だが、この流れも、3カ月で断ち切られる。髙田が前田、山崎とともに、第二次UWFを旗揚げするためであった。
「10・9」は髙田にとって、以来、7年ぶりの新日本プロレスのリングであった。解説席には猪木がいるし、この全面対抗戦を主導した長州は、第5試合で安生に完勝している。同項でも触れたが、以前のアキレス腱断裂の大怪我も、まるで感じさせない大勝ぶりだった。
それは、当時、全治4ヵ月とされ、選手生命も危ぶまれるシチュエーションだった。〉
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