伝説の「10・9」から30年…新日本 vs UWFインター団体対抗戦を当事者の証言で振り返る
「敬司呼んでくれ! 敬司を!」(長州力)
〈1993年7月5日、青森市民体育館。6人タッグマッチに出場した長州は、藤波からのタッチを受け、リングインのためロープを跨ぐと、そのまま転倒。右足アキレス腱の完全断裂だった。技の攻防ゆえの事故でないことが、大事を物語っていた。
瀕死の状態の長州は、それでも必死にコロコロとエプロンに転がり、もう1人のパートナーの木戸にタッチし、そのままリング下に落下。そして出たのは、意外な言葉だった。
「敬司呼んでくれ! 敬司を!」
武藤敬司は振り返る。
「俺、あの時、次の試合のためにスタンバッてたんだぜ? そしたらセコンドが俺を呼びに来て。『敬司を呼べ』とかどうとか。長州さんは要するに俺に、代打で出ろ、と。次の試合? それもやったよ。俺、合間なく、ダブルヘッダーだったわけ」
当日、全8試合中の、6試合目、そして7試合目のことだった。メインには、橋本真也も、長州の子飼いの馳浩もおり、しかもそちらは平成維震軍との8人タッグマッチだった。にも関わらず、長州が自らの代役に指名したのは、武藤だった。
武藤を買っていたフシはあった。思い出されるのが長州の、“素質”と“素材”についての発言だ。
「この世界は、素質があるか、素材に恵まれてるかだな。俺はどっちだと思う?……素材? バカ、俺は“素質”だよ(笑)。素質にも素材にも恵まれてるのは、ウチでは武藤くらいなもんだ」
橋本真也も語る。
「ファンのみんな、意識してないかもだけど、武藤は、日本で柔道3位になってる実力者なんですよ(*19歳時に、全日本ジュニア柔道体重別選手権大会95kg以下級で3位)」
新日本との提携時代、選手たちと練習した安生洋二も裏付ける。
「新日本の選手は、皆、スパーリング強かったですよ。特に強かった選手? やっぱり武藤選手かなあ。腕を取るのが凄く上手いし。橋本選手も強かったですね。蝶野? 覚えてない……」
武藤本人も、思うところはあったようだ。「10・9」が決定すると、各マスコミに対し、UWFを意識した発言が増えて行った。
「ひょっとしたら、UWFとの免疫があるのって、俺くらいかもな」(*凱旋帰国後の1986年10月より、メインどころとして対戦)
「UWFがロープ使わないって言うけど、俺も基本、(ロープに)飛ばさないよ。今年のブッチャー(橋本)とのG1決勝だって、俺、一度もロープに飛ばしてないし」
その試合は、「10・9」に先立つこと約2カ月前、8月15日におこなわれた。武藤が勝利し、保持していたIWGPヘビー級王座に加え、『G1 CLIMAX』制覇という二冠を達成したが、水面下では全面対抗戦の実現へと動いていた時期だ。武藤が既に髙田を念頭に置いていて不思議はなかった。
反面、立場の差から来る恐れもたびたび口にしている。
「俺が経験していない、組織の長というのを、あの人(髙田)は経験してるからね……」
その憂慮が一気に噴出したのが、9月17日の長野ビッグハット大会の試合後コメントだった。決戦まで約3週間であり、対戦カードも試合順も既に決定していた。
「ドームでは、それまで新日本が全勝してても、俺が負けたらウチの負けだと思ってる。それを考えると、プレッシャーを感じるよ」
取材すると、「俺はストーン・フェイスだから」が口癖の武藤。“表情がない”“感情を露わにするほうでない”という意味だ。「逆に、橋本とかは違うんだよな。なんならアイツ、いざと言う時はウソ泣きできるタイプだと思うよ(笑)」(武藤)。しかし、この長野大会では、その後もいつになく感傷的なコメントが続いた。
「俺が今まで培って来たストーリーは、アメリカが長くて、ずっと1人だったよね。それが今日、みんなとバスに揺られたり、一緒に練習してる風景の中で、俺、感じたんだよ。あー、いっぱい選手がいるんだなぁって……。それ見ると、俺は絶対負けられないなと思って……」
この時期、外敵は他にもいた。他でもなくUインターを退団してやって来た、山崎一夫だ。フリーとして生きて行く覚悟の表れか、“山ちゃん”らしからぬ過激な物言いが目立った。「(フリー初戦の)後藤(達俊)なんて前菜。早く武藤や橋本のメインディッシュが食べたい」「猪木、馬場を叩き潰す!」(*猪木は挑戦を却下)。敵となった安生洋二には、「ヒクソンに、200%勝つまでやって来い!」。返す刀で、IWGP王者の武藤も挑発した。
「IWGPなんて、しょせん、団体の枠内で決めたチャンピオン」
だが、武藤は返した。
「その枠が一番大きいのが、新日本プロレスだよ」〉
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