役者、「カルトQ」でお茶の間へ “永久凍土解凍”でステージに立ち続ける「うじきつよし」の音楽への帰り道
第1回【「子供ばんど」の衝撃――エレキ少年が念願のデビューをつかみ、米国に進出するまで】のつづき
ロックバンド「子供ばんど」の顔でもあったうじきつよし(68)は、グループの活動休止直後に五社英雄監督作品「226」に出演し、音楽とは異なる才覚を発揮していった。小学校低学年時から弾いていたギターを一旦置いたうじきを待っていたものとは……。
(全2回の第2回)
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【写真】五社英雄監督、リック・デリンジャーとのツーショットも 貴重写真で振り返る「うじきつよし」の歩み
たどり着いた2,000本目の直前に五社監督と
1980年にデビューした子供ばんどは、2,000本のライブを達成した1988年10月10日に、活動を休止した。2,000本という数字を目指し、バンドの最晩年は、昼、夜、深夜と1日3本のライブをこなしていた。
「もう、ファンもついていくのが大変というような雰囲気でしたね(苦笑)。終わった時にはへとへとで、もう先のことなんて考えてなかったし、1~2年、ひとりで米国にでも行こうかな、なんてぼーっと考えてたぐらい。それぐらい余裕がなかったですね」
ところが、うじきの運命を決めた出来事が、2,000本目のライブ前に起きていた。
「10月9日に名古屋でライブを終え、翌日の大阪に移動する途中で、京都に寄ったんです。『太秦で会いたいと言っている人がいる』と聞いて。真剣にとらえる余裕もなかったんですが、とりあえず向かうと、撮影所の『五社組』という看板のところに連れていかれて。当時は座組なんて言葉も知らないから、『組』ってヤクザかよ、なんて思いながら建物に入っていった。すると、中にサングラスをかけた人がズラリ(苦笑)。その奥に五社英雄監督が座ってらした。芝居を一切やったことはないし、監督の作品も見たことはない、と言ったのですが……」
だが五社監督は「兵隊とヤクザは誰でもできるっていうから」。うじきがかけていたサングラスを取らせて、「大きな声出して、いうこと聞けば、まあ大丈夫だ。自分もロックってものは聞かないんでお兄さんのことはよく知らないけれど、まあ大丈夫だ」と言い放った。
とはいえ、まだバンドは活動中のこと。大阪ライブの後には、宇崎竜童の「竜童組」がメキシコシティで行う「ジャパンロックフェス」出演が控えていた。子供ばんど、SHOW-YA、アナーキーが前座を務め、5万人のメキシコの大観衆を前に演奏した。
「大阪から中1日でメキシコへ発ち、飛行機では熱が出てふらふら。会場は高地で酸素が薄くてやっぱりふらふら。そこに台本が届いたんです。宇崎さんには『(演者欄の)6人目にお前の名前があるなんてすごいこと。絶対頑張ってやりなさい』と激励され、一緒に来ていた阿木(燿子)さんにも『おめでとう』と祝福されました。演奏はウケましたが、自分はもうスカスカ。すべて出たんだろうな、と思いましたね」
帰国後再び太秦を訪れ、バリカンで坊主頭にされ、うじきの役者人生がスタートした。
初めて触れた芝居の世界
初めて触れる芝居の世界に、驚かされることは多かった。
「五社監督は『はい、俺がOKったらOK』っていう感じの人でしたが、音楽の世界ではそういう人には会った経験がありませんでしたね」
その後も五社監督を慕うようになる。
「何かあると、いや何もなくても『大阪で番組収録があって』なんて言いながら、よく五社監督にお会いしに行っていました。顔を出すと『お前は何になりたいんだ。役者として主役を張れるような奴じゃないだろう』とか言われて『そうなんですけど、何になりたいか分かりません』と言っていると、『しょうがない奴だなあ』とか言いながら可愛がってくれ、その後の五社監督の作品には全部呼んでくださいました。あるとき、映画会社の関係者に『うじき君が五社監督の作品に呼ばれる理由がやっと分かった。親戚なんだってね』と言われましてね。監督に聞いたら『うん、嘘ついちゃった』って(笑)。そういうお人でした。『カルトQ』の司会を引き受ける際も監督にご相談に伺ったんです」
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