「“警視庁人”の心意気」が宿る「ポリスミュージアム」一時閉館へ…「殉職警察官」の壮絶な最期を物語る展示も

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必ず犯人を……

「金がないと他人に使われ、みじめな一生を送ることになる。億単位の金が欲しかった。銀行強盗をするには銃がいる。それで警官を襲った」

 公判などで明かされた、後に逮捕された元自衛官(当時20)の供述である。離婚した母親に引き取られ小学4年から高校3年まで、母親と親しくなった男性の住むアパートで一緒に暮らした。男性も別れた妻との間に元自衛官と同い年の息子がいた。偶然だが、二人は同じ保育園に通っており、元自衛官はいつもいじめられていた。

「同居は恐怖だった。自分の方が折れて我慢し、ストレスがたまった」(同)

 男性は元自衛官の母をよく殴った。その都度、男性を憎み不快な気分になったが、態度には示さなかった。やがて「感情を消すことができるようになった」という。経済的事情などから大学進学はあきらめ、高校卒業後は陸上自衛隊に入隊。その際に提出した書類では尊敬する人物に「ゴルゴ13」と書いていた。2年で除隊するが、退職金43万7000円とあわせ約100万円あった貯金で車の免許を取得。コーヒー豆の販売店でアルバイトをする、物静かな青年――周囲にはそう映っていた。

 5月16日午前2時50分ごろ、自転車を整理しようと派出所の外に出ていた山崎巡査に対し、刃渡り約17センチのサバイバルナイフで背中や胸などを数回刺し、腰の短銃を奪おうとした。山崎巡査は激しく抵抗するだけでなく、制圧しようとした。騒ぎを聞き、外に出てきた小林巡査部長に対しても胸などを数回刺し、短銃を奪おうとしたが、やはり激しい抵抗にあい、短銃強奪をあきらめてその場から逃走した。小林巡査部長は逃げる元自衛官に3発を発砲し、交番に戻って署に電話をしようと受話器を持ち上げたところで力尽きた(もう一人の巡査は仮眠中だった)。

 何度刺されても犯人に立ち向かい、奪われようとした短銃を守り抜き、傷ついた同僚を助けるため、そして発生を伝えるため署に連絡を入れる――まさに壮絶な最期にして、凄まじいまでの警察魂である。

「必ず敵はとってやる――」

 警視庁は捜査第一課の殺人係四個班を投入したほか、捜査第三課など刑事部各課、そして隣接の20署からも応援を求め、200人態勢(通常の特捜本部の約3倍)で捜査に当たった。2人の通夜は5月17日に行われたが、警視庁は6月9日に公葬を執り行うと発表。元自衛官が逮捕されたのは6月8日だった。

「警視庁全職員の執念の捜査が実りました」(橋爪茂捜査第一課長・当時)。

「法治国家の秩序に対する反逆、挑戦的な事件であり、犯行も凶悪で残虐。被告の不遇な生い立ちなどを考慮しても極刑はやむを得ない」(1991年5月27日、東京地裁判決)

 連行される際も無表情で、すべての感情を消し去っていたような元自衛官の死刑判決が最高裁で確定したのは、98年9月17日だった。

 警察博物館は来春、品川区西五反田にあるTOCビルで再開予定だという。

デイリー新潮編集部

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