御三家、2代目公募、引退撤回、認知症…「橋幸夫さん」激動の歌手人生 屈指の大事件「アイドル4億円裁判」を振り返る

エンタメ

  • ブックマーク

「潮来笠」「いつでも夢を」などの大ヒット曲で、昭和の歌謡史を牽引してきた橋幸夫(本名=橋幸男)さんが4日午後11時48分、肺炎のため都内の病院で死去した。82歳だった。数々の功績に彩られた芸能人生のなかで、時に世間を驚かせる話題を提供したことでも知られる橋さん。その波乱の歩みを象徴する出来事のひとつが「4億円裁判」だった。

 ***

 1960年に日本ビクター(現JVCケンウッド)の音楽レコード事業部だったビクターレコード(現ビクターエンタテインメント)から「潮来笠」でデビュー。舟木一夫(80)、西郷輝彦さんと「御三家」として大人気となった。史上初めて「日本レコード大賞」を2度受賞したことでも知られ、著書には認知症の実母の介護生活を綴った『お母さんは宇宙人』(90年)などがある。2017年には47年間連れ添った前妻と離婚、再婚をしている。22年には京都芸大の書画コースに入学し、個展を開くなどした。

 23年には80歳の誕生日をもって歌手活動からの引退を宣言。「自分の歌を引き継いでほしい」と“2代目・橋幸夫”を公募したが、24年4月に謝罪会見を開いて引退を撤回した。それからわずか1年後の25年5月、所属する「夢グループ」の石田重廣社長は、橋さんが「アルツハイマー型認知症」と診断されたことを発表。しかし橋さん本人は、翌21日の夢グループ公演でステージに立ち「いつでも夢を」など3曲を熱唱した。

 5月末、都内の自宅から救急搬送され「一過性脳虚血発作」で入院。6月初めに退院し、同月11日に開催された夢グループ公演では元気な姿を見せてくれたばかりだった。最期は真由美夫人が看取ったという。

4億円の汚名

 筆者は、これまで何度も橋さんと取材などで顔を合わせてきた。振り返ると“波乱の歌手人生”だったように思う。その中で最も記憶に残っているのは、1986年の出来事だ。今では音楽関係者の間でも風化してしまったかもしれないが、当時は「橋幸夫4億円の損額賠償を求められる」と大きなニュースに発展したものだった。

 86年9月、女性アイドル・グループ「セイントフォー」が所属するプロダクション「日芸プロジェクト」が、橋さんが代表取締役副社長を務める「リバスター音産」に対して、約4億円の損害賠償を求め東京地裁に訴訟を起こした。

 東京佐川急便の総帥・佐川清会長(当時)が後援会長を務めていた関係から、82年に橋さんのために作ったレコード会社がリバスター音産だった。橋さんは設立翌年の83年に、デビュー以来、専属契約を結んできたビクターとの契約を打ち切って移籍。さらに、84年11月には代表取締役副社長に就任し、名実共に“リバスターの顔”となった。

 そんなリバスターからレコードデビューしたのが、セイントフォーだった。映画「ザ・オーディション」の主演の一般募集で3万人の中から選ばれた岩間沙織、浜田範子、鈴木幸恵、板谷祐三子の4人組。激しいダンスを交えながら歌い、ダイナミックなバック宙を披露するなどで人気を呼んだ。歌手デビューにあたっては、レコード会社十数社が争奪戦を繰り広げたが、激戦の末にリバスターが獲得した。

「橋さんの移籍時に、リバスターはビクターと揉めた。佐川会長にしても、橋さんを迎えるにあたって、売れっ子のアイドルを引き入れて事務所の力を強くしておきたかったのかもしれませんね」(音楽関係者)

次ページ:副社長が告訴の憂き目に

前へ 1 2 3 次へ

[1/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。