御三家、2代目公募、引退撤回、認知症…「橋幸夫さん」激動の歌手人生 屈指の大事件「アイドル4億円裁判」を振り返る

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ドロ仕合の果てに

 しかし87年1月、セイントフォーは解散する。これはメンバー4人の意向だったという。

 この間も東京地裁からは和解勧告が出され続けていたが、両社は5回の公判を重ね、もはや泥沼状態に陥っていた。そうした状況にリーダー格のメンバー・岩間は、

「大人の人たちのトラブルには疲れました。私たちは懸命にライブ活動だけでも続けていきたかった。応援してくれるファンの人たちに中途半端な状態では、かえって申し訳ないと思って4人で話し合って決断しました」

 と会見で涙ながらに語っていたのが印象的だった。「40億円デビュー」しつつも、たった2年5ヶ月で空中分解したわけだ。

「解散後も主役なしの裁判は継続されましたが、最終的に裁判所の和解勧告を両社が受け入れたようです。ただ、ファン無視のトラブルで、せっかくの“金の卵”も台無しになってしまったことは確かです」(前出・音楽関係者)

 リバスターは、設立11年目の93年4月、佐川急便事件が発覚したことで解散に追い込まれた。そのため橋さんは同年の10月、古巣のビクターに復帰した。

 リバスターからは14枚のシングルを出し、90年には14年ぶりに「第41回NHK紅白歌合戦」に出場し、「いつでも夢を」を歌った。だが、リバスター時代は、65年間の芸能生活でもっとも辛かった時期であり、また後援会会長だった佐川社長の恩義に報いた10年間だったのかもしれない。

 こうした苦境もまた、橋さんの人生を支える糧となった。ラストステージは6月12日。歌手として生涯現役を貫いた生涯だった。

渡邉裕二(わたなべ・ゆうじ)
芸能ジャーナリスト

デイリー新潮編集部

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