「ママの言うことさえ聞いていれば、幸せになれるから」 3歳から母に洗脳された少年が、57歳の今も続ける「ひきこもり」人生【毒母に人生を破壊された息子たち】

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氷の食卓

 山本さんは1935(昭和10)年生まれの父と、1940(昭和15)年生まれの母、姉と弟という家庭で育った。父は有名企業の会社員、母は専業主婦という、高度経済成長期において典型的な家族の姿だった。

 幼い時から、常に父親に恐怖の念を抱いていた。夕食は家族団欒とは程遠く、「氷の食卓」だったと山本さんは記憶する。

「食べ物を落としたりして、ちょっと物音を立てただけで、父親から“やかましい! ちゃんと、せんか!”って雷が落ちるんです」

 声楽をやっていたという父の、バリトンのすさまじい怒鳴り声が家中に響き渡る。

「母親はけたたましく笑って食卓を盛り上げようとするのですが、母親自身、楽しい話なんかできる人ではなく、僕に道化役を命じるんです。“楽しい話をしなさい。ほら、白い歯を見せて”って。母親に睨まれるので、必死に明るさを演じていました。うちは家の中でも外でも、“幸せ家族”を演じないといけなかった。母親が、そうじゃないといけないという人だったから」

良妻賢母

 無口な父親とは、情的な会話をしたことは一度もない。ただ、父親の雷が落ちないよう、気を張り詰めているのが日常だった。

「今にして思えば、父親は人と関わることが苦手な人間だったと思うんです。好きなことだけをしている人。仕事もきっと、そうだったと思います。僕はいつ雷鳴が轟くか、そのタイミングがわからないので、いつも備えていないといけなくて、父親にビクビクしていました」

 一方の母親は、山本さん曰く、「中身が空っぽな人間」だったと今は思う。

「母親は専業主婦だから、父親に怒られないように常に尽くしていないといけない。でも判断基準を自分で持っていないから、世間体とかの物差しで良妻賢母を演じないといけない。そういう余裕のなさが、僕に対しては脅しや支配となって行使されたと思うんです。吐き出すところがない母親の鬱憤ばらしが、僕だった。弟のことは、僕と違って溺愛していましたから」

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