漫画家「水木しげる」は、なぜ「忠誠心と責任感にあふれる日本軍参謀」を告発したのか?

国内 社会

  • ブックマーク

 漫画家の水木しげるさん(1922~2015年)が、2025年7月に「コミック界のアカデミー賞」とも言われるアイズナー賞で殿堂入りを果たした。水木さんは『総員玉砕せよ!』という作品で2012年にアイズナー賞最優秀アジア作品賞を受賞しており、この作品への高い評価が今回の殿堂入りの背景にあったものと考えられる。

 さて、この『総員玉砕せよ!』の作中には、兵士たちに自決や玉砕を迫る木戸参謀という人物が登場する。じつはこの木戸参謀には実在のモデルがいて、彼自身が戦後に出版した日記や回想録の内容から、忠誠心や責任感にあふれる元軍人として知られていたという。

 たとえば、彼は敗戦後に南方で抑留されていた時期の日記のなかで、「たとえ戦さは敗れても、あるいはそれゆえにこそ、将軍の名において、有終の美をまっとうするだけの責任感と誇りはもつべきであり、若い将兵が今自らの意志と決断で、ここに残っている限りは、将官が帰りたがってはならないのではないか」と立派なことを述べている。

 なぜ水木さんは、そのような人物を告発する作品をあえて描いたのだろうか――? 日本軍人らの日記類を読み解き、南方抑留の実態を明らかにした新刊『南方抑留 日本軍兵士、もう一つの悲劇』(林英一著、新潮選書)から、この作品が描かれた背景を紹介する。

 * * *

ラバウルに抑留された「エリート参謀」

 1908年、山口県萩市生まれの松浦義教は、熊本陸軍幼年学校、陸軍士官学校(四二期)を出た将来を約束されたエリートでありながら、二・二六事件に連座した疑いで陸軍刑務所に収監される。釈放後に上司の計らいで満洲とソ連の国境守備隊や牡丹江の第三軍(岩集団)参謀部で勤務し、1943年に第三八師団(沼兵団)参謀としてラバウルに派遣されていた。

 終戦後、松浦は復員目前にして今村大将の要望を受け、戦犯裁判の弁護将校・弁護人(Defending Officer)としてラバウルに残留した。松浦は自身の日記について、「予期される連合軍の検閲に備えて、一般的なことは拙いながら英文で書き、秘匿すべき戦犯事項は記号隠語を多用した日本文で、他人には読み辛い細字で挿入した。検閲官が一見して、これは英語勉強のための日記だなと感ずるように装ったものである。その原本の日記を平文に直し、帰国の際、秘密裡に身につけて持ち帰った遺書を眼目として加えたものが本書である」と説明している。

 帰国後の1949年に光文社から出版しようとしたが、GHQの検閲に引っ掛かって日の目を見ず、その後7度にわたる改稿を重ねて、1998年に90歳で大往生を遂げる前年に2000部を自費出版する形で刊行されたのが、『真相を訴える──ラバウル戦犯弁護人の日記』だった。

今村将軍への忠誠心

 松浦は今村と交わした言葉の数々を日記に書き連ねることで、ラバウルでの残留生活の心の支えとしていた。

 たとえば、1946年5月27日に戦犯収容所で比較的自由なCコンパ(囚舎)に立ち寄った際、今村から「敗戦の今日、難しいことではあろうが、戦犯者の遺族にも、何とか温かい手が差し伸べられないものだろうか」と言われて、「今村さんの祈るような眼としみじみした語調が、切実な印象で心の奥深くしみ透った」と記している。

 また、同年6月2日には、今村の要望で戦犯収容所に小さな畑がつくられ、今村を筆頭に将軍たちが働いているのを知り、「今村さんのこの願いは、それだけではなく、将軍たちが、無為にして堕することを防ぎ、併せて、悲運の部下と故国に対する贖罪の姿にあらしめたかったのではあるまいか。炎天下に、率先、汗をしたたらせ、肥桶まで担ぐ今村さんの姿は並々ならぬものであり、そういう発願をもった菩薩行であろうと察し、わが身もまたひきしまる」と感化されている。

 その今村から松浦が自決用の毒薬の入手を頼まれたのは7月24日のことで、「武人として、お上から親任された現地最高の方面軍司令官として、お上と国民に対し、敗戦のお詫びに、先立てる部下を追わんとする決意を止めることはできない」と、弁護団医務室の薬剤将校に青酸カリの調達を求めたが、「一切の毒薬類は、もうずっと以前に、豪軍が押収して行きました」とにべもない返事で、入手の目途が立たずに煩悶していたところ、7月26日夜に今村が自殺を図って昏睡状態になり、「いい薬を準備して上げられなかった」ことに心を痛めた(その後今村は回復した)。

 その松浦の抑留も遂に終わりのときが来る。1947年3月18日、復員船に乗った松浦が高い甲板から桟橋を見下ろすと、長身のアービング准将の姿があった。そのとき初めて「昨日まで戦勝軍の優越感と尊大の象徴だった准将も、今はただの人形のように何の権威もない者に見える。もはや虎口は脱したのだ」と思えた。松浦は帰国後の1949年にジャノメミシンに就職し、1951年に全日本養兎生産輸出振興農協の組合長、1953年に日本きもの文化協会の理事を務めた。

水木しげるの『総員玉砕せよ!』

 松浦は降伏後も日本軍の戦地での行為を擁護し、ラバウルに足止めされた戦犯や作業団に同情的であった。当時の彼を支えていたのは、戦時中からの今村将軍への忠誠心であり、日本に家族を残しながら、1年近くも現地に留まっていたのである。

 だが、最後に松浦について付け加えなければならないことがある。漫画家の水木しげる(本名・武良茂)が1973年に発表した長編戦記マンガ『聖ジョージ岬・哀歌 総員玉砕せよ!!(講談社、後に「総員玉砕せよ!」と改題)』には、松浦をモデルとした木戸参謀という人物が登場する。
 
 水木は、戦時はニューブリテン島の第三八師団第二二九連隊隷下の成瀬大隊(ズンゲン支隊、支隊長・成瀬懿民陸軍少佐〔陸士五一期〕)に所属し、終戦後はラバウルの収容所に抑留されていた。2021年に発見された『総員玉砕せよ!』の構想ノートには、木戸参謀は「松浦参謀」と実名表記されている。
 
 この物語は、1945年3月、ズンゲン支隊が連合軍に総攻撃を仕掛けて全員玉砕したという報告を受けた後、実は支隊のかなりの数が生き残っていたことを知ったラバウル司令部が激怒、松浦参謀を敗残兵たちのいる最前線のヤンマーに派遣して生存将校・下士官全員の責任を問い質し、松浦立ち会いの下で支隊の将校2人を自決させたという陰惨な史実を基にしている。

「参謀はテキトウな時に上手に逃げます」

 作中、木戸参謀が「戦況報告」に来た石山軍医中尉から「日本以外の軍隊では戦って俘虜になることをゆるされていますが、どうして我が軍にはそれがないのです。それがないから無茶苦茶な玉砕ということになるのです」と咎められて口論となり、最後は石山軍医が抗議の自決をする場面がある。

 事件発生時、水木はマラリアと左腕の負傷のためにズンゲン支隊を離れていたが、「この『総員玉砕せよ!』という物語は、90パーセントは事実です。ただ〔引用者注:木戸〕参謀が流弾にあたって死ぬことになっていますが、あれは事実ではなく、参謀はテキトウな時に上手に逃げます」と、1991年に記した「あとがき」で明かしている。

 水木がズンゲン支隊の「玉砕」事件について聞いたのは終戦後、ラバウルの収容所にいたときで、その全体像を理解したのは復員後に松浦の回想「灰色の十字架──ラバウルの悲劇」を読んでからだといわれている。同書で松浦は、「この地において、全員玉砕するまで戦い抜くという不動の鉄則」が共有され、「われわれ自身が、あと幾月かの後には、みんな玉砕する運命に在る」と覚悟していたものの、終戦によって死者への負債という「生涯に負うて消えない灰色の十字架」を背負ったと書いている。しかしその十字架は、水木からみれば、もっと重いものであるべきだったのかもしれない。

※本記事は、林英一『南方抑留 日本軍兵士、もう一つの悲劇』の一部を再編集したものです。

林英一(はやし・えいいち)
1984年、三重県生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科後期博士課程単位取得退学。一橋大学博士(社会学)。2025年7月現在、二松学舎大学文学部歴史文化学科准教授。インドネシア残留日本兵の研究で日本学術振興会育志賞受賞。著書に『残留日本兵の真実』『東部ジャワの日本人部隊』(ともに作品社)、『皇軍兵士とインドネシア独立戦争』(吉川弘文館)、『残留日本兵』(中公新書)、『戦犯の孫』(新潮新書)、『残留兵士の群像』(新曜社)など。

デイリー新潮編集部

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。