亡くなったクリエイターの功績を後世に伝えるには…「京アニ放火殺人」から6年で“実名報道”の意味を改めて考える
アニメファンがクリエイターに関心がなくなった
ところで、当時、筆者が話を聞いたアニメ関係者の間では「実名報道すべきだ」という意見が多かった。「有名なアニメーターが犠牲になっている可能性があり、京アニだけの問題ではなく、業界全体にとって大きな損失と言っていい」などと心配する声も聞かれたし、「アニメーターたちが悪いことをしたわけではないのに、実名を出さないのはおかしい」「京アニには知り合いが働いているのに、安否に関する情報が回ってこない」と、苛立ちと不安を隠せないアニメーターもいた。
しかし、XなどSNSでは実名報道に否定的な意見が大勢であり、なかにはアニメファンと思しき人も相当数が反対していた。これを見たあるアニメ関係者は、当時の筆者の取材に対し、「なぜ、アニメファンが実名報道に反対なのか理解できない。アニメファンなら、好きなアニメーターの安否を心配しないのか。ひょっとすると今のアニメファンは、アニメを作るクリエイターには関心がなくなったのかもしれない」と疑問を呈していた。
実は、この指摘はかなり的を射ていると感じる。筆者が取材を通じて感じることだが、昨今増えている“推し活”勢は作品やキャラクターには関心を示すものの、作品を手掛けるクリエイターに対する関心は著しく低いのである。「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」の監督やキャラクターデザイナーの名前を挙げられる人はどれだけいるだろうか。名前が知られているアニメ関係者など、宮﨑駿や新海誠、庵野秀明、押井守くらいではないかと思われる。
かつてのアニメ雑誌では、クリエイターの特集が大々的に組まれていた。1980年代に宮﨑駿が再注目されたのも、編集者の鈴木敏夫が企画した「アニメージュ」の特集がきっかけである。しかし、近年のアニメ雑誌はクリエイターを特集する記事の比重が少なくなっており、ましてやネットニュースではグッズが発売されたなどの商業主義的な話題ばかりが記事化されている。クリエイターへの関心が高まらないのは当然かもしれない。
実名発表後、犠牲者を追悼する声が上がった
一昔前のアニメファンは、監督、キャラクターデザイナー、作画監督などに関心を持ち、作画監督ごとの絵柄を比較研究する人も多かった。ところが、アニメファンの“ライト化”と業界の商業主義化が進んだ今、タイトル全体には光が当たっても、製作に関わるクリエイターが注目される機会が減少してしまった。クリエイターへの関心の低下こそが、“実名報道は不要”と主張するアニメファンが多かった要因の一つであろう。
実名報道に反対した人は、池田氏や武本氏などクリエイターの名前までは知らなかった人が大半だと思われる。作品そのものやキャラクターへの関心で留まっている人と、製作するクリエイターにまで深く関心が及ぶ人とでは、実名報道に対する考えが大きく異なっていたのは間違いない。
なお、すべての犠牲者の実名が報道されると、SNSでは犠牲者を悼む声が相次いだ。特に池田氏の死が与えた衝撃は大きく、「池田晶子さん、嘘でしょ……」「(池田氏がキャラクターデザインを行っていた)響け!ユーフォニアムはどうなるんだろう」などのコメントが多数書き込まれていた。こういったファンは熱心な京アニファンであり、実名報道に一定の意義を感じていたのではないだろうか。
京都新聞は「エンドロールの輝き」と題し、池田氏などの業績に光を当て、犠牲者がアニメーターとしてどのような仕事をしたのかまで丁寧に報じる記事を掲載した。地元メディアの矜持ともいえるだろう。しかし、こういったメディアは非常に少なく、遺族のもとに押しかけてコメントを求めるだけの記者も多かったと聞く。アニメは世界に誇る文化だからこそ、関わったクリエイターを実名で報じ、その業績にも光を当てるべきであった。
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