「軍が銃撃した」との一報に駆け付けると、黒焦げになった兵士の遺体が…「天安門事件」36年 現場で取材した日本人記者の証言
強烈なにおい
そしてついに中国当局は20日午前10時、1949年10月の新中国建国以来初めて、首都・北京の中心部に戒厳令を布告し市内に軍を導入した。トウ小平の怒りが「天安門事件」の悲劇を生んだといえよう。しかし、学生や市民は北京市内各所にバリケードを築くなど抵抗は根強く、軍による天安門広場奪還はなかなか果たせずにいた。
学生や市民の間では、軍が弱腰で、丸腰の人間に銃口を向けることができないのではないかとの憶測が生まれていた。すでに、夏が近く、北京市内は連日30度以上の蒸し暑さで、特に天安門広場は日差しを遮るものはなく、直射日光や強烈な照り返しにあぶられ、彼らは放心状態に陥っているように見えた。
また、地方から大挙して押し寄せた学生らは広場に寝泊まりしており、風呂にも入れず、さらにトイレも広場の隅の設置されている簡易トイレで済ませているため、広場全体に臭気が漂って、強烈なにおいを放っていた。さらに、このようななか、ハンスト学生が毎日倒れており、救急車が四六時中、けたたましいサイレンを鳴らして広場周辺を走り回っており、広場にいる人間は正常にものを考えられないような、混とんとした状態に陥っていたように筆者にはみえた。
報道陣は帰国
北京にとどまっていた海外を含む報道陣の間では、このような状態に「もう、運動は中だるみだ。事態の長期は避けられない。軍の広場制圧や学生の排除もないだろう」と囁かれており、長期戦になることを見越した欧米の報道機関は続々と帰国していた。
北京入りした産経新聞の面々も「もう軍は攻めてこない。このまま膠着状態が続くだろう」との判断から5月末で北京を離れ、筆者だけが「非常事態要員」ということで北京に残ることになった。
「軍が発砲した」
ところが、3日後の6月3日朝7時ごろ、本社外信部から「3日未明に、北京飯店(ホテル)前に軍が現れたが、市民に追い返された」との連絡が入った。北京飯店は天安門広場から徒歩5分ほどの距離にある。
筆者はすぐに北京飯店前に駆けつけたが、すでに軍は撤退した後だった。住民の話では、一部で衝突が起き、学生らによって軍の武器が奪われたという。その後、天安門広場に隣接している長安街(道路)沿い十字路付近で、武器を分捕った学生ら数人が自動小銃をもって気勢を上げていた。近くに兵士のヘルメットも置かれていた。
と、そのとき、十字路の北側部分から白い制服を着た武装警官らしき一団が急に現れた。4、5列縦隊で、次から次へと川の流れのように走ってくる。さらに、カーキ色の軍服を着た解放軍兵士の一団数十人も現れたと思う間もなく、「パーン、パーン」という乾いた音が響くとともに、焚火を焚いたような白い煙が当たりを包み始めた。
「軍が発砲した」と咄嗟に思い、すぐに駆けだした。とにかく、走って逃げた。逃げる途中で、レンガや石を兵士に向かって投げつける学生らが目に入った。と、思う間もなく、目から涙がとめどなく流れた。催涙弾だ。とにかく、ハンカチを目と鼻に充てて走った。
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