「ひろゆき」のショート動画が“知的好奇心”の入り口に…本を読まないことは“教養の否定”と言えるのか

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サビのよさが理解できない?

 ポピュラー音楽に置き換えてみましょう。本でいう主張のコアは、この場合、「サビ」にあたります。サビへとスキップして、そこだけ聴く人はかなりいます。サビだけの切り抜き動画も無数にある。ですが、サビしかないのなら、もはやそれはサビとして機能しません。イントロ、Aメロ、Bメロがあってはじめてサビが活きてくることをわたしたちは経験上、知っている。なにより、かつてカラオケで歌うためにこそ曲を聴いていた世代は、3分半なら3分半、サビ以外も歌う必要があり、サビ以外もきっちり聴いて覚える必要がありました。

 作品という単位も、サビという概念も、いまではもう成立しないのかもしれません。受け手の視聴の環境や習性にあわせた結果、イントロどころか前奏もなしに、いきなりサビからはじまる曲も増えました。

 一部分だけでもちゃんと成立するのが音楽のいいところです。ですが、全体を構造でとらえることができれば、サビのよさがいっそう際立つ。もともと、そのように曲はできている。本もそうです。全体の構造や文脈のなかでコアが理解できるようにつくられている。コアだけあってもダメなのですね。サビのみ切りとるということは、構造やコンテクストをなくすということでもあります。

 教養とは、いってみれば、このサビのよさを理解したり味わったりするための「コンテクスト把握能力」じゃないでしょうか。世界の真理を探究したかつての教養主義も、個別の書物や思想を大きなコンテクストのなかに位置づけることによって「全体」を志向していました。構造をメタ的に読むことを「批評」といいかえてみてもいい。

 他人との会話の場面でいえば、相手の知識や関心やリズムを適切にキャッチして、それに見合いそうな話題を自分の引き出しから選べる。しかも、その場全体にふさわしいかたちにそれらを編集できる。つまり、状況に応じて比喩や具体例をうまく使いわけることができる。教養とはそんな能力のことではないでしょうか。だからこそ、かつて、サロンや社交の場において教養が必要とされたのです。そして、ある程度は学習可能なものです。

 たとえば、いま若い人たちが視聴しているネット番組についても、いい大人が激高したり喧嘩をはじめたりする場面を「やべー」とかいいながらそこだけ何度も再生するのではなく、どうやって場や空気がつくられているのか、対話がどう運んだのか、どういった言葉が選択されているのか、論争の背景にはどんな対立があるのか、たまには俯瞰する位置から批評的に眺めてみる必要があるのかもしれません。

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第2回『「クイズ王」は現代の教養人か? 学歴を看板に掲げる「人気クイズ番組」が浮かび上がらせた“知識”と“教養”の違い』では度重なる「クイズ王ブーム」を手掛かりに「知識」と「教養」の違いについて大澤氏が語る。

大澤聡
1978年生まれ。批評家、近畿大学文芸学部准教授。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。メディアの歴史やジャーナリズム、文芸に関する論考を各メディアで発表している。著書に『定本 批評メディア論』(岩波現代文庫)、『教養主義のリハビリテーション』(筑摩書房)、編著に『1990年代論』(河出書房新社)、『三木清教養論集』(講談社文芸文庫)などがある。

デイリー新潮編集部

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