「ひろゆき」のショート動画が“知的好奇心”の入り口に…本を読まないことは“教養の否定”と言えるのか
新しい教養の現場?
わたしは2018年に『教養主義のリハビリテーション』(筑摩書房)という本を出しました。池上彰さんを代表例に挙げて、「知らないと恥をかく〇〇〇〇」(池上さんのシリーズ本の題名でもあります)といった社会常識や時事問題をテレビ番組の尺にあわせたコンパクトな解説によって学んで、翌日にはそれを披露できることが教養の基本的なイメージになっていると述べました。教養が「知識」やライフハック的なものへ矮小化されつつある当時の状況に対する懸念を示したのですね。テレビが入り口になるのはよいのだけれど、たいていはその入り口だけで終わってしまう。あれから7年、入り口の数ばかりうなぎのぼりに増え、さらにその中心はテレビ番組からネット動画へと完全に移行しました。
上で挙げた青年が辿った一連のネット討論番組(あと「PIVOT」などもある)、もしくは「中田敦彦のYouTube大学」に代表される個人の解説番組、そしてそれらに刺激されるかたちで既存の大手出版社が続々と参入しつつある各種YouTubeチャンネル、いや、場合によっては「令和の虎」や「REAL VALUE」といったビジネスのプレゼンテーションをエンタメ化した番組までをゆるやかに広く包摂するかたちで、若い人たちにとっての教養の新しい現場が立ち現れています。企業発のものと個人発のものがシャッフルされて横並びになっているところもまた今っぽい。関心のベクトルがどこを向くかはほとんど偶然に左右されます。
もちろん、かつての教養人たちはそんなものは「教養」と呼ぶに値しないと唾棄するでしょう。だけれど、教養という単語から若い人たちに連想され、教養的なものとして圧倒的な支持を得ているのがこうした番組で交わされる言葉や知識であるのも事実なのです。現代の教養を考えるうえで、批判するにせよ肯定するにせよ、まずはこうしたメディア環境にわたしたちが囲まれていることを押さえておく必要があります。
「全体」へのあきらめ
日々、SNS経由でさまざまな情報の気配が視界に入ってきます。存在を知ったからには覗き見たいというくらいにはわたしたちの好奇心はまだまだ生きているんじゃないでしょうか。焦燥感や義務感に駆られてあれもこれもと、ひととおりチェックせずにはいられないのが教養主義の第一歩ですから、問題はその好奇心をどう運用するかだと思います。
ただ、視界に入ってくるものが多すぎるあまり、可処分時間やタイパのことがどうしても頭をよぎってしまって、1.5倍速や2倍速で再生したり、動画内のシークバー上の山グラフを参考に世間的にリプレイ回数のもっとも多いくだりだけを観たりといった情報処理めいた視聴態度が生じます。そのすぐそばで切り抜き動画は流行している。
あらかじめ「全体」の理解があきらめられているということなのでしょう。かつての教養主義はたとえそれが幻想だろうと全体を手にする、もっといえば、この世界の真理に到達することにこそ究極的な目標がありました。だから、哲学や文学が重宝されたのです。けれども、いまはそうした全体がはなから目指されていない。
全部で256ページの本があったとします。著者の主張や結論のコアはそのなかの一部分にすぎません。あとは主張や結論にいたるエビデンスや理由づけなどの論証過程として機能します。ならば、コアだけかき集めたものが10ページになったとして、それを売ればいいではないかとなりそうですが、そういうわけにもいかない。そこだけ読んでも理解できないからです。256ページすべてとはいいませんが、そのボリュームにはそのボリュームの必然性がある。きっと。もちろん、これまでの規格化された出版ビジネスの世界では10ページでは商品になりえないから……という事情がありはしましたが、いまは措いておきましょう。
ところが、いまの消費者は、はじめからこのコアだけをよこせといってしまう。もっといえば、コアの瞬間的なインパクトだけでもちゃんと成立するコンテンツを求めているように見えるのです。
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