元はデビュー曲ではなかった「メモリーグラス」 堀江淳が「僕は歌謡曲の歌手じゃないのに…」という葛藤を乗り越えるまで
あの歌手に歌ってほしいと思っていた
曲を作る最中、「歌ってほしい」と考えた“意中”の歌手がいたという。
「研ナオコさんがいいなと思ってたんですよ。後に(1981年11月発売のアルバム『恋愛論』で)カバーしてくれたけど、もし最初に研さんの曲として出てたら、そんなに売れなかったと思うんだよね。結果的には僕のちょっと男か女か分からない中性的な声があの歌詞には合っていた。当時はよく、『これ男なの?女なの?』と言われました。僕の声だったからこそ、あそこまで売れたんじゃないかなと今は思いますね。まぁ、昔から自分の声は大嫌いだったんだけどね」
1981年4月21日に発売されたデビュー曲は60万枚を売り上げる大ヒットとなった。ヒット曲になると思って作っていた堀江にとっては、その結果に特に驚くことはなかったが、世間の目はそうはいかない。途端に、一人で街中を歩けなくなったという。
「ザ・ベストテン」は中継出演多数
当時全盛だったテレビのチャート番組にもランクイン。「ザ・ベストテン」(TBS系)に出たのは同年夏以降で、全国ツアー中の会場からの中継が多かった。それには理由がある。
「当時のニューミュージックの人は、チャート番組に出なかった。だからアーティストっぽくしようと、スタジオには行かないと決めていた。ツアーがなくてもわざわざ中継のためだけにどこかに行ったりもしたんですよ。札幌の中島公園の野外ミニライブで歌った後、屋内の控え室に行こうと思ったら、集まった女の子たちでおしくらまんじゅうみたいになったこともあった。あの恐怖はまだ覚えてるよ。アイドルの人は大変だな、なんて思ったね(苦笑)」
あまりにも存在が大きくなったデビュー曲。歌謡曲を歌うアイドルではなく、本来のニューミュージックのアーティストとして軌道修正を試みたが「メモリーグラス」に匹敵するヒット曲は生まれなかった。
「ニューミュージック系ではそこそこの点数の曲はできたけど、レコード会社からは『またメモリーグラスみたいな曲を作ってくれ』と言われてしまう。3枚目のアルバムを作るまではそういう葛藤がありました。でも、作詞作曲もしていたから、そこそこ印税などのお金も入ってくるわけ。だから、このまま仕事がなくなってもまだ大丈夫と思って、焦りはなかったんです。そのうち、新曲を出してもどのみちメモリーグラスを超えられないのなら、片方で自分の好きな曲も作りつつ、もう片方ではこの曲を大事にしていこう、と考えるようになりました。最初の頃はチャート番組に出る出ないって言ってたけど、その後はバラエティ番組もオファーがあれば受けるようになったし、この曲を歌おうと思えるようになった。それは今でも変わってないですね。で、そういう番組に出ると、またカラオケで『メモリーグラス』がたくさん歌われるんですよ(笑)」
堀江はもともと多作家ではない。アルバムに必要な曲数が10曲必要だったら、10曲しか作らないタイプ。作業モードに入ると常にメロディを考え、出来上がると歌詞づくりに取り組む。つまり、「メモリーグラス」の作り方は特別だったのだ。
自分のセンスを総動員したからこそ、時代を風靡し、広く歌い継がれる曲になったのだ。研ナオコのほかにも、フランク永井、吉幾三、柴田淳、JUJU、Ms.OOJA、新浜レオンら数多くのアーティストがカバーし、幅広い世代に親しまれている。
2020~2024年には、ボサノバ、AORアレンジ、ストリングスの入った新バージョンの三部作もリリース。『メモリーグラス』の新たな世界観を打ち出した。
「この曲を大切にしたいと思っていたから、これまでアレンジは控えてきたけど、デビュー40周年の記念に、ちょっと着せるものを変えてみようとやってみたら、思いのほか楽しくてね。この曲はどんなアレンジにしても合うんだなって再発見になりました」
今は来年のデビュー45周年に向け、ライブの人気曲で、中森明菜に提供した「ドライブ」をはじめ、提供曲のセルフカバーを含むアルバムの制作に意欲的に取り組んでいる。最近はTikTokも活用したライブ配信をこなすなど、まだまだ楽しませてくれそうだ。
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第1回【堀江淳の大ヒット曲が「水割りをください」から始まる理由…すすきので始めたパブのアルバイトから生まれた名曲をめぐる知られざるエピソードとは】では、作曲を始め、文通相手にもらった詩に曲を付けた思い出などについて語っている。