元はデビュー曲ではなかった「メモリーグラス」 堀江淳が「僕は歌謡曲の歌手じゃないのに…」という葛藤を乗り越えるまで

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第1回【堀江淳の大ヒット曲が「水割りをください」から始まる理由…すすきので始めたパブのアルバイトから生まれた名曲をめぐる知られざるエピソードとは】のつづき

 CBSソニーの「第1回SDオーディション」に合格し、デビューを待つ身となった堀江淳(64)。デビューの日までは変わらずパブでアルバイトを続け、曲作りに励んでいた。それから1年半を経て上京すると、東京の水が合ったのか、納得できる曲作りができるように。ただ、デビュー曲はもともと「メモリーグラス」とは別の曲になる予定だったという。そこには、堀江の抱えていた大きな葛藤があった――。

(全2回の第2回)

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歌詞とメロディーが同時に降臨

 SDオーディションはヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)のようにグランプリを決めるものではなく、地区ごとに合格、不合格が判定されていた。同じ北海道地区で堀江とともに合格していたのが、1980年にヒット曲「ペガサスの朝」をリリースした五十嵐浩晃。その五十嵐のデビューが先に決まっていたことから堀江は待機の身だった。

「意外とすんなりと歌手デビューの夢が叶ったんですよね。僕の場合は苦節何年とかじゃないんです。事務所が決まった1980年秋にいよいよ上京したんですが、その頃は『嬉しい、楽しい』ばかりで。東京の環境が僕の感覚に合っていて、札幌で作ってた曲はちょっと違うな、という思いも出てきました。実は、東京に来てから作った曲は全部アルバムに入っていて、没になった曲はないんですよ」

 札幌時代に作っていた曲は、中島みゆきの作詞に影響を受け、女性目線で書かれたものが多く、曲調もマイナーで派手な曲はほとんどなかった。チャゲ&飛鳥や長渕剛、松山千春らの例からも分かるように、当時は男性アーティストが女言葉で歌うのは珍しいことではなかった。当初、デビュー曲としてほぼ決定していたのは、札幌時代に作った「夢吹雪」という曲。こちらも女性目線で書いた曲で、最終的には「メモリーグラス」のB面曲となっている。

「札幌事務所のスタッフが『夢吹雪』を気に入ってたんです。ディレクターも『これで行きましょう』と言っていたんですが、ある日、事務所への道中、地下鉄広尾駅に向かう交差点で信号待ちをしていた時、不意に『水割りをください 涙の数だけ』という歌詞とメロディが同時に降りてきたんですよ」

別の曲のフレーズを合体させて

 不意に浮かんだキャッチーな歌詞とメロディ。ただ、そのワンフレーズが浮かんだだけで、全体の曲作りはそれからだった。曲作りを進めていくうち、「歌謡曲みたいだな」という思いが自身の中に広がっていく。

「思い付いたフレーズをもとにヒット曲を作りたいと思って、頭にメロディが浮かぶと、その断片をテープレコーダーに録音してストックしていました。でも作っているうちに今回は歌謡曲っぽいので、自分じゃなく誰かが歌ってくれたらいいな、とも思ってた。でも作るうちにどんどん良くなっていくんですよ。『ゆらり揺らめいて』という部分は、実は同時進行で作っていた別の曲に入っていた歌詞。『キラキラと輝く』もそう。いいなと思っていた部分をパズルのように合体させたわけです。アマチュアのままだったら3曲になっていたでしょうね。でもそうしていたら、今日ここでこんな話はしてませんから(笑)」

 歌詞はディレクターとやり取りで何度も書き直し、1カ月をかけた。ようやく自身もディレクターも納得するものが出来上がったが、それでもなお葛藤があった。

「東京に出てきた作った他の曲は、もっとニューミュージックだったわけよ。でも『メモリーグラス』は歌謡曲の匂いがする。やっぱりあんまり歌いたくないなと。でも事務所もレコード会社も『これだよ』って。その声に負けたって感じですかね。でも結果的にそれでよかった。僕の声にもマッチしたしね」

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