澤田知可子「会いたい」誕生秘話 有線放送で火がつき急きょシングル化、大ヒットも「苦しみがすぐに来た」

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第1回【「俺がお前のファン第1号なんだ」…澤田知可子が“資本は声”に気づいた夜と、忘れられない別れ】のつづき

 澤田知可子(61)の大ヒット曲「会いたい」は、もともとシングルとして発売される予定ではなく、アルバムと同日にシングルカットで発売された曲だった。それ以前に決まっていた大型タイアップソングが思うような成果を残せなかった中、「会いたい」は有線放送をきっかけにロングヒットとなっていった。

(全2回の第2回)

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「私、話したことありましたっけ?」

 1990年6月に発売された4枚目のアルバム「I miss you」のレコーディングに臨んでいた澤田は、その日に歌入れをしなければ間に合わないギリギリのタイミングで送られてきた沢ちひろの歌詞に目を奪われた。

「ちょうどその少し前に、私の憧れのアーティストに楽曲を作ってもらえる機会があったんですね。それがアレンジの行き違いで、アーティストさんのイメージと違い過ぎるという理由でお蔵入りになってしまったんです。あまりのショックで急性胃炎になり、入院したほどでした。ディレクターが先方を怒らせたという事情もあったのか、責任をもって『澤田知可子の代表作を作る』と意気込んで、満を持して持ってきたのが『会いたい』だったんです」

 ディレクターは「お前、これを見て泣くなよ」と夜の10時頃にファクスで送られてきた歌詞を差し出した。

「驚きました。私、自分の経験を何か話したことあったっけ、と。デビュー前に憧れのバスケ部の先輩がいて、事故で亡くなってしまったんです。それがきっかけで歌手を目指したと説明したら、ディレクターは『気味が悪いこと言うな。時間がないから早く歌え』って。3回ぐらい歌ったら、『もうこれ以上、君はこの歌を上手に歌えないと思います』と言われて帰されました。それほど、ディレクターのイメージ通りに仕上がったんです」

 それにしても、自分が経験した状況にあまりにもピッタリの歌詞だったため、まるで先輩から叱咤激励されているような感覚があったという。

「これだけ素晴らしい歌で、歌詞にメロディが乗るだけで表情が豊かになる作品。無心で歌うことの素晴らしさを体験しました」

JRAのタイアップ曲も売れず…その一方で有線で火が付く

 アルバム「I miss you」と同時に発売された「会いたい」だが、その前に、JRA(日本中央競馬会)のタイアップCMソング「Live On The Turf」が7月に発売されることが決まっていた。賀来千香子と柳葉敏郎という当代きってのトレンディ俳優が出演することでも話題になっていたが、肝心の楽曲セールスは鳴かず飛ばずだった。

「JRAのCMが決まったということでレコード会社は総力を挙げていました。ちょうどオグリキャップが有馬記念を制した年で、競馬人気もすごかったんです。7万人のお客さんを前にプロモーションで歌う機会もありましたが、結果が出なくて。9月頃には『これで終わったな、もう捨てられるな』と家で泣いてたんです」

 ところが、レコード会社からかかってきた電話は意外な内容だった。

「『大変なことになってるぞ。まだはっきりは言えないけど、有線放送で“会いたい”が上がってきてるんだよ』って。有線放送って基本的にシングル曲じゃないとチャート上位にのらないんです。当初はタイアップもなかったのに、ディレクターが『俺の置き土産にさせてくれ』と、レコード会社の反対を押し切って無理やりシングルカットしたんです」

 当初の出荷枚数も少なかった。それが有線放送で火がつき、有線の受付を担当していた女性がリクエストの合間に「会いたい」をかけていたら問い合わせが入り、やがてリクエストが殺到。レコードのチャートもじわじわと上がり始めていく。「Live On The Turf」の順位を抜き、「会いたい」は発売から半年が経った1991年に入ってからようやく本格的なプロモーションがスタートした。

「どこの有線局でもずっと週刊チャートでベストテン内に入っていたけれど、1位は獲れなかった。でも最終的に年間チャートで1位になって、有線放送大賞をいただけたんです」

 発売から1年半後、「会いたい」で紅白歌合戦にも出場した。

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