逮捕後に「結婚申し込み」「1万通のファンレター」が…90年目の「阿部定」事件 “伝説の妖婦”の素顔

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大事なお客さん

 ある夕のこと。

「お加代さん。離れに大事なお客さんだから、お願いしますよ」

 料理の盆を持ち定がその部屋へ行くと、卓の前に座っているのは、当の吉蔵ではないか。そのセリフがふるっていた。

「外で酒を断ってるから、今日はウチで客遊びするんだ」

 このまま4月15日夜、定と吉蔵は初めて結ばれる。しかし、狭い店でのこと。二人の不倫関係はすぐに女中仲間の噂となり、ほどなくしてトクの二人を見る視線もきつさを増す。店での逢瀬を諦めた吉蔵は、定を外に連れ出すようになる。

 以降は、次々と待合旅館(貸座敷)を泊まり歩き、最後に行き着いたのが、荒川区尾久の満佐喜(まさき)だった。

首を絞めながら

 二人は1週間もの連泊、つまりは流連(いつづけ)をし、その間、文字どおり、寝食も忘れて情事三昧の日々を送る。部屋に立ち込めた獣じみた異臭に、女中が顔をしかめる場面もあった。

 同じころ、定は密かに牛刀を買っている。以前に観た芝居で、出刃包丁を使う場面があり、「秘め事のときの小道具に使うとおもしろいのでは」と思ったからだ。

 そんな爛れた愛欲の日々が続く中で、二人はいつか首を絞めながらの情事に耽るようになる。

堪忍して

 そして流連も1週間となる5月17日。吉蔵が言い出した。

「金も底をついた。どうだい。いったん互いの家に戻って、また出直すというのは」

「絶対にイヤだよ。あたしは帰りたくない」

「わがまま言うな。おまえだって、はなから、おれに子供までいることを知ってたんだし、この先また楽しむために、ここで少し我慢も必要というもんだ」

 ここに来て、定を言いようのない不安が襲う。子供の話まで持ち出して……いよいよ吉さんは、あたしと別れる気なのではないかしら……。

 そして日付が変わった18日の深夜0時過ぎ。定は、その夜も吉蔵と交わりながら、その首に桃色の腰ひもを二重に巻くと、抑えきれぬ思いを込めて、両の腕で力いっぱいに引き絞った。いつにない息苦しさに、カッと目を見開く吉蔵。

「さだ」

「堪忍して、吉さん」

 吉蔵が完全に絶命したのを確かめると、定は額の裏に隠していた牛刀を用いて、愛する男の下腹部から局部を切り取った。それから切り口より生じた血液を指に付けて、吉蔵の左腿と敷布に、「定吉二人キリ」と書いた。さらに、吉蔵の下着を肌に巻き付け着替えを済ませると階下に降り、女中に、

「ちょっと水菓子を買ってきます。上の旦那は昼まで起こさないで」

 と言い残し、早朝の街へと消えたのだった。

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