逮捕後に「結婚申し込み」「1万通のファンレター」が…90年目の「阿部定」事件 “伝説の妖婦”の素顔
阿部定事件が起きたのは、1936(昭和11)年5月18日。今年で90年目を迎える。阿部定が生まれたのが1905年(明治38年)5月28日だから、今年5月末で生誕から120年という節目となる。
「好きになるのは一生に一人でいい」
首絞め情事の果てに最愛の人の命を奪い、さらには牛刀で切り取った局部を隠し持ち逃亡を図った、阿部定。
しかし、当時の大衆はこの阿部定事件を単に猟奇犯罪とは捉えず、純な愛恋の極致と見なし、逮捕後の定には、結婚申し込みも含め、1万通ものファンレターが届いたほど。彼女が刑期を終えて社会復帰するや、かの坂口安吾も雑誌の企画で対面を果たし、「(阿部さんは)どこかしらに人々の救いになっている」など、ストレートな好意をぶつけている。
その後も、大島渚監督の世界初の芸術的ハードコア映画「愛のコリーダ」(76)や渡辺淳一のベストセラー『失楽園』(97、講談社)のモチーフとなったり、2000年代になってもNHK「アナザーストーリー」(20)や、つい昨年も直木賞作家の村山由佳が小説『二人キリ』(集英社)を発表するなど、事件発生から90年近くが過ぎても、彼女への関心はずっと途切れない。
節目の年を機に、『阿部定正伝』(情報センター出版局)の著者、ノンフィクションライターの堀ノ内雅一氏が、彼女の一生を振り返り、なぜ阿部定がここまで人々の関心を引き付け続けるのかを探った。
【前後編の前編】
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【発掘写真】逮捕の22年後、割烹で客にお酌をする53歳・阿部定の笑顔。失踪した際の達筆すぎる置き手紙も
初めての経験
東京は神田区新銀町(現千代田区神田)の畳屋に生まれた阿部定は、8人兄姉の末っ子として何不自由なく育った。
「あたい、家の風呂は口開け(一番)でないと入らないの。ひとりでも小僧が先に入ると、もう、いやんなって銭湯へ行くの」
幼少より、ませくれたわがまま娘であったが、転落の最初は数え年で15歳のとき。女友達の家で出会った「慶応の学生さん」に乱暴される。慶大生は部屋で二人きりになるや、
「結婚するときのお稽古だから」
と定を押し倒した。定にとって初めての男性経験だった。
もうヤケクソだ
「初潮もこないうちに処女を失うなんて。これで私はまともにお嫁にも行けない。もう、ヤケクソだ」
以降、“畳屋のおさだちゃん”は、浅草公園(エンコ)辺りを根城にした“エンコのサーちゃん”となって派手な夜遊びと男遊びが始まり、家に寄りつかなくなる。果ては、年長の新聞記者と出奔騒動を起こすに及んで、父親の堪忍袋の緒も切れる。
「そんなに男が好きなら、娼妓に売ってやる」
当の定は、父に連れられて乗り込んだ汽車のなか、こう思っていた。
「どうせヒビの入った体だし、こうなった以上はどうともなれ」
17歳の定が預けられたのは、横浜に住む柳葉という阿部家の遠縁にあたる女衒だった。
定が前借金300円で最初に抱えられたのが、横浜市中区の芸妓屋・春新美濃(はしみの)。芸者として“みやこ”という源氏名はもらったが、特段の芸事ができるわけでもなく、あとは体を売る“不見転(みずてん)芸者”になるしかなかった。
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